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柴田勝家の名言・逸話まとめ

名言・逸話

先鋒の大将

あるとき、信長から先鋒の大将に命じられた勝家はこれを辞退したが許されず、結局承諾した。その後、たまたま安土城の城下で信長直属の家臣と身体が行きあたり、勝家はその者を無礼として切り捨ててしまった。
これに信長は怒って勝家を責めたが、勝家は「そうであればこそ、先鋒を辞退申したのです。理由なくお断りしたわけではございませぬ。先陣の大将たる者は権威がなければ下知(=上から下へ指図すること)することはかないませぬ。いかがでございましょうか」と言い放ったので、信長は返す言葉もなかったという(『名将言行録』)。

鬼柴田・かかれ柴田・瓶割り柴田の異名

"鬼柴田" の異名をもつ。また、戦で「かかれ!かかれ!」と大きな声で叫び、そのすさまじい突撃力から "かかれ柴田" という異名も持っている。

瓶割り柴田:六角義賢に攻められた際、勝家は長光寺城を包囲されてしまった。あるとき郷民が六角氏の陣に赴き、水源を断てば、城はもたないことを伝えた。こうして六角は水源を断ち、長光寺城内は水がほとんどなくなっていった。この窮状に勝家は城外への出撃での討ち死にを決意し、わずかな水の入った瓶を長刀の石突でたたき割ってしまった。
翌朝、城門を開いて討って出て見事に大勝した。これ以後、人は勝家のことを "瓶割り柴田"と呼ぶようになった という。

信長の妻女狩りに苦言を呈する

あるとき、勝家の居城・北ノ庄城の城下において、老女が多くの人数を率いて、妻女を脅迫して京へ上らせていた。実はこれは信長が自分の気に入りそうな妻女をどの国でも探して連れてくるよう、この老女に命じていたのであった。
これを知った勝家はこれを正すべく、老女に対して「信長公を非道の者にしようとしている罪は重い」として一行を捕えて全員を海にしずめてしまったという。
その後、勝家はいきさつを信長に伝え、「御名を汚し、女捜しで諸国をまわっていたので処罰しました。しかしながら、この事はご自分で吟味した上、お仕置きなさってしかるべきことでございます。」と諫言すると、信長は毒気を抜かれて妻女狩りをすっぱり思いとどまったという(『名将言行録』)。

越前平定後

織田政権は朝倉義景を倒したものの、越前国は一揆がたびたび起こり、勝家は数年がかりでなんとか平定した。
勝家は郷民たちに武具の代わりに農具をいくらでも与えるとして、数え切れないほどの武具をかき集めた。 そして鍛冶屋を呼び集めて、これら武具を農具に作り替えさせて郷民らに与えたので、国中はますます静まり、一揆はなくなったという(『名将言行録』)。

賤ヶ岳の戦い

  • 自ら結果を予言:賤ヶ岳の戦い(1583年)の最中、味方の佐久間盛政が敵将の中川清秀を討ち取り、そのまま陣を置いた。これに勝頼はたびたび引き返すように言ったが、盛政は「(勝家が)鬼柴田といわれたのは美濃・尾張・近江での小競り合いのころのことだ。今回は大合戦であるから今までとは違う!」といって退却しなかった。
    これに勝家は「無茶なことを言うものだ。こうなってはわしは負け戦となって切腹する羽目になるぞ」と言ったが、その言葉通りになってしまったのである(『名将言行録』)。
  • 利家を許す:戦いに敗れた後、前田利家と対面した勝家は、先に撤退して敗戦のきっかけを作ったことを責めることもせず、数年来の骨折りを感謝し、「秀吉と親交が深いのだから必ず降参するのだ。私のことを考え、再び道を誤ってはならない」と述べた(『加賀金澤前田家譜』)

壮絶な最期

秀吉と織田政権の覇権を巡って賤ヶ岳の戦い(1583年)で敗れた際、自害の直前に妻・お市の方に逃げるように勧めたが、お市はこれを拒んで運命をともにしたという。また、勝家はそれぞれ功のある者たちを賞し、最期は腹を十文字に割いて自害したという。

辞世の句

夏の夜の夢路はかなき後の名を雲井にあげよ山ほととぎす

「夏の夜の夢のように儚い私の名を後世まで伝えてほしい。山ほととぎすよ。」といった意味。

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