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丹羽長秀

丹羽長秀(にわ ながひで、1535-1585年)は織田信長に仕え、のちに織田四天王の一人に数えられる重臣となった。

はじめ信長に小姓として仕えたが、美濃攻略で武功をたてると、上洛後は浅井・朝倉攻めや本願寺勢力との戦いなどで活躍し、やがて若狭国を与えられて近江佐和山城主となる。
文武両道であり、大船建造の奉行や安土城築城の総普請奉行なども務め、信長の信頼はひときわ厚かった。

信長死後は秀吉に味方して100万石を超える大大名となったが、秀吉の天下統一過程で病没した。

経歴

長秀は1535年(天文4年)に丹羽長政の子として誕生。

丹羽氏は尾張国春日井郡の豪族で代々尾張国守護・斯波氏の家臣であったといい、織田氏とは同格の立位置にいたが、織田氏は織田信秀の代に急速に勢力を拡大したことで、丹羽氏は織田氏の傘下に入ったという。

信長に小姓として仕える

長秀の幼年期の史料はほとんどないが、幼名を "万千代" といい、16歳となった1550年(天文19年)のときに信長に仕えたという。

1553年(天文22年)に初陣し、1556年(弘治2年)に起きた信長と弟・信勝との織田家の内紛では信長方に付いたとされ(稲生の戦い)、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いにも従軍したとみられている。
また、1564年(永禄7年)に信長の養女となった織田信広の娘を娶ったとされている。

確実な史料での初見は信長が美濃攻略で盛んに斎藤義龍を攻めていた1564年(永禄7年)からであり、この年に美濃・加冶田城の佐藤 忠能父子へ調略を図っており、さらに、犬山城を攻略している。

1565年(永禄8年)から信長は東美濃攻略に取り掛かるが、長秀は川尻鎮吉(=河尻秀隆)らとともに猿啄城を攻略して、続く堂洞城も陥落されるという功をあげた。

奉行の役割もこなす長秀

1568年(永禄11年)には前年に美濃国を平定した信長が足利義昭を擁して上洛する際に従軍し、木下秀吉や佐久間信盛らとともにこれを阻もうとする近江守護の六角義賢の支城・箕作城を攻略し、観音寺城を無血開城させている(観音寺城の戦い)。

また、上洛後は京に残り、村井貞勝とともに近江国安吉郷の村々から誓約状をとっていることから、京都周辺の政治に関与していたとみられる。
この誓約状で検地が行なわれたことが示されており、信長による検地の初見となっている。

また、1569年(永禄12年)には信長の命で松井友閑とともに「名物狩り」の奉行として京都・堺で天下の名器を集めている。

奉行としての働きもこなす長秀だが、同年8月から始まる伊勢攻略をはじめ、各地を転戦して功をあげていく。

1570年(元亀元年)、信長が越前の朝倉攻めを行なったときには浅井長政の謀反によって京への退却を余儀なくされた。この後に長秀と明智光秀の2人は信長の命で、人質をとるべく若狭へ遣わされている。

同年の浅井長政への報復戦として戦った姉川の戦いでは織田軍が勝利し、その後に秀吉が浅井方から奪った横山城に入城したのに対し、長秀は浅井長政の支城・佐和山城の近くに付城を築いてそこに入っている。

織田家臣として初の国持大名へ

1571年(元亀2年)には織田軍が佐和山城を攻略。佐和山城攻めを任されていた長秀は城代として入る。

1573年(天正元年)に信長は対立関係となった将軍・足利義昭を追放し、浅井・朝倉の両氏をも滅ぼして織田政権を樹立させたが、これらの戦いで長秀は大いに活躍。同年には若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となったのである。
この他、時期は定かではないが、佐和山で長さ三十間の大船建造の奉行も務めている。

その後も長秀は1574年(天正2年)の長島一向一揆征伐、翌1575年(天正3年)の高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆征伐など、休む間もなく働いた。

こうした功によって同年には朝廷から惟住(これずみ)の姓を賜っている。"惟住" とは九州の名族である。これは信長が朝廷へ要請したものであり、将来の九州平定を想定しての行動との見方がある。

1576年(天正4年)の安土城築城の際には総普請奉行に任じられている。

1581年(天正9年)に行なわれた京都馬揃えは、信長がその強大な力を誇示するために行なわれた織田軍団を総動員した大規模な軍事パレードである。『信長公記』を見ると、その一番に "惟住五郎左衛門尉長秀" とあり、長秀は織田家臣団の序列において相当上位にいたことがうかがえる。

長秀は1582年(天正10年)、武田征伐に従軍しており、武田滅亡後は信長の命をうけて盟友・徳川家康を大阪で接待していた。
本能寺の変で信長の命運が尽きた時、長秀は長宗我部元親を討つべく織田信孝ともに大坂で四国出陣の準備中であった。

長秀と信孝は明智光秀の娘婿・津田信澄を共謀者とみなして殺害すると、秀吉と合流して明智光秀を討った(山崎の戦い)

長秀と信孝は信長重臣の中で本能寺に最も近い位置にいながら、秀吉との合流を待つしかなかった。 それは信長の死を知ったときに逃亡兵が相次ぎ、兵力が大きく失われていたからという。

百万石の大名へ

その直後、織田家の後継者決めと織田領の再分配のため、織田重臣らが集まって会議が開かれた(清洲会議)。

このとき柴田勝家が後継者に織田信孝を推薦したが、これに対して秀吉は織田信忠の遺児・三法師を提案すると、長秀は秀吉を支持し、近江国の滋賀郡と高島郡を得ている。

これがきっかけで翌1583年(天正11年)にはついに勝家と秀吉による織田家中を巡る対決に発展し、長秀は秀吉に味方して勝家・信孝は滅んだ。

そして戦後、秀吉から勝家の所領であった越前国(一部の地域を除く)と、加賀国二郡を与えられ、秀吉に協力した恩恵を受けた長秀はおおよそ123万石を有する大大名にまでなったのである。

1584年(天正12年)には秀吉と家康・織田信雄連合の戦いが勃発したが、このときは秀吉方でありながら、病気のために出陣はできなかった。

1585年(天正13年)に病没。

略年表

  • 1535年(天文4年)、誕生。
  • 1550年(天文19年)、織田信長に仕えたとされる。
  • 1553年(天文22年)、初陣を飾ったとされる。
  • 1564年(永禄7年)、初陣を飾ったとされる。美濃・加冶田城、犬山城を攻略。
  • 1565年(永禄8年)、東美濃攻略の総大将を務める。
  • 1568年(永禄11年)、観音寺城の戦いで功をあげる
  • 1569年(永禄12年)、大河内城の戦いに参戦。
  • 1570年(元亀元年)、姉川の戦いに従軍。
  • 1573年(天正元年)、浅井・朝倉討伐に従軍。若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となる。
  • 1574年(天正2年)、伊勢長島一向一揆に従軍
  • 1575年(天正3年)、高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆に参戦
    朝廷から惟住(これずみ)の姓を賜る
  • 1576年(天正4年)、安土城の築城を開始、総普請奉行を務める。
  • 1582年(天正10年)、本能寺の変後、山崎の戦いに参戦。同年、清洲会議では秀吉が推す三法師を支持。
  • 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いでは秀吉方につく。
  • 1585年(天正13年)、胃癌のため死去。享年51。


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