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滝川一益

滝川一益(たきがわ かずます/いちます、1525-1586年)は織田信長の家臣で織田四天王の一人に数えられる。伊勢攻略において活躍し、武田滅亡後には上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を拝領し、関東方面の支配を任せられた。しかし、信長死後の清洲会議に間に合わず、さらに、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方についたことで失脚した。

経歴

近江・甲賀出身で幼年期から鉄砲に熟練していたというが定かではない。また、織田信長に仕えるまでの履歴は不明。

伊勢攻略

伊勢攻略で先鋒として活躍。木造具政の調略を機に大河内城の戦い(1569年)で北畠氏を降伏させ、 信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養継子として、大河内城を茶筅丸に明け渡すという和睦を成立させた。また、三度にもわたった長島一向一揆(1570,73-74年)に参戦し、これを平定後に長島城を与えられた。

遊軍として転戦、関東統治を任される

以後、長篠の戦い(1575年)、越前一向一揆(1575年)、天王寺の戦い(1576年)、紀州征伐(1577年)、有岡城の戦い(1578-79年)、第二次天正伊賀の乱(1581年)と各地を転戦し、功をあげていった。
甲州征伐(1582年)では軍監として出陣し、武田勝頼を追い詰めて討ち取るという功績を挙げ、戦後には上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与えられて関東を任された。

失脚への道

しかし、本能寺の変(1582年)の勃発にともない、事態は一変。北条氏直が上野国へ攻めてくると、これを神流川の戦い(1582年)で迎え撃つが、敗戦して伊勢へ逃げ帰ることとなった。
その後、清洲会議を経て織田家中で台頭した秀吉と柴田勝家が対立すると、賤ヶ岳の戦い(1583年)で勝家方として秀吉に対抗したが、勝家の敗戦によって戦後は秀吉に所領をすべて没収され、丹羽長秀を頼って越前で蟄居の身となった。
その後、秀吉と家康が対立すると、小牧・長久手の戦い(1584年)で蟄居の身にも関わらず、秀吉から呼び戻されて参戦した。戦後は秀吉の東国外交を担うなどしたが、まもなく没した。

略年表

  • 1525年(大永5年)、誕生。
  • 1560年(永禄3年)、北伊勢の桑名長島の地を得、北畠氏や関氏に対して備えることを信長に進言。
  • 1567年(永禄10年)、伊勢攻略で先鋒を務める。
  • 1569年(永禄12年)、木造具政を調略し、その後の大河内城の戦いで活躍。
  • 1570年(元亀元年)、長島一向一揆で桑名城に籠もるも敗走を余儀なくされる。
  • 1573年(天正元年)、第二次長島侵攻に参戦。
  • 1574年(天正2年)、第三次長島侵攻に参戦。
  • 1575年(天正3年)、長篠の戦い、越前一向一揆に参戦。
  • 1576年(天正4年)、天王寺の戦いに参戦。
  • 1577年(天正5年)、紀州征伐に参戦。
  • 1578-79年(天正6-7年)、有岡城の戦いに参戦。
  • 1581年(天正9年)、第二次天正伊賀の乱に参戦。
  • 1582年(天正10年)、甲州征伐では軍監として出陣、戦後に上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与えられる。 信長横死後、北条氏の上野侵攻(神流川の戦い)に敗れ、伊賀へ逃走。
  • 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家方につくも、最終的に降伏。戦後は秀吉に所領を全て没収され、丹羽長秀を頼って越前にて蟄居。
  • 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いでは秀吉から呼び戻され、秀吉方として参戦。
  • 1586年(天正14年9月9日)、死去。享年62。


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