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明智光秀

明智光秀(あけち みつひで、1528?-1582年)は織田信長の重臣・織田四天王の一人であり、"本能寺の変"で信長を討った首謀者。元々は足利義輝の奉公衆・細川藤孝に仕えていたと思われる。信長を倒したものの、まもなくして中国方面から引き返してきた羽柴秀吉によって山崎の戦いで敗れたことから「三日天下」と称された。

経歴

明智氏は美濃の守護・土岐氏の一族といわれているが、明らかではない。光秀は土岐氏にかわって美濃国主となった斎藤道三に仕えたとされ、長良川の戦い(1556年)で道三方についたため、斎藤義龍によって明智城を攻められて一族が離散し、その後は越前国の朝倉義景を頼って10年間仕えたというが、青年期は不明な点が多いとされている。

織田信長と足利義昭の上洛

足利義昭が織田信長へ上洛を要請した際に光秀を通じたとされ(『細川家記』)、義昭と信長の両属の家臣として、この上洛(1568年)に従軍し、義昭の仮御所とした本國寺の警護を任された。翌年の本圀寺の変(1569年)では三好三人衆らの侵入を防ぎ、同年、羽柴秀吉や村井貞勝らとともに京都と周辺の政務にあたった。

織田政権下での活躍

金ヶ崎の戦い(1570年)、志賀の陣(1570年)に従軍、また、翌年の三好三人衆や石山本願寺の挙兵に対し、信長と義昭に従軍して功をあげ、近江国の滋賀郡(約5万石)を与えられ、坂本城を築城した。
その後、義昭と信長が不和になり、義昭が信長に対して挙兵すると、槇島城の戦い(1573年)が勃発した際には信長の直臣として従軍した。同年、越前の占領行政も担当している。

1575年(天正3年)には惟任の賜姓と従五位下、日向守に任官。同年に高屋城の戦い(1575年)、越前一向一揆戦(1575年)に参戦し、その後、丹波国の攻略を任された。
石山本願寺との天王寺の戦い(1576年)では司令官の塙直政が戦死し、光秀も危ういところを信長の来援で助けられたが、過労で重病となり、生死をさまよった。
以後、紀州征伐(1577年)、信貴山城の戦い(1577年)、毛利攻め(1578年)の援軍、有岡城の戦い(1578年)など各地を転戦。1579年(天正7年)には丹波・丹後国の平定を成し遂げ、丹波一国を与えられた。翌年には丹後国の細川藤孝、大和国の筒井順慶等、近畿地方の織田大名が預けられ、光秀の畿内方面軍が成立。

本能寺の変

甲州征伐(1582年)後には、信長の命で徳川家康の饗応役を務めていたが、その最中に中国攻めの支援を命ぜられ、出陣のために亀山城に集結した。しかし、光秀は近臣に信長討伐の意を告げ、本能寺の変(1582年)で信長を討ち取ったが、それをいち早く耳にした秀吉と山崎の戦い(1582年)で敗戦し、落ち延びる途中で死去した。

墓所・史跡

墓所

  • 谷性寺(京都府亀岡市宮前町)
  • 西教寺(滋賀県大津市坂本5-13-1)
  • 高野山奥の院(滋賀県大津市)

西教寺は光秀の菩提寺とされており、境内には明智一族の墓が祀られている。

首塚

光秀の首塚に関しては以下の伝承がある。

  • 京都府亀岡市の谷性寺に光秀の家臣・溝尾茂朝(みぞお しげとも)が光秀の首を持ち帰って埋葬したという。
  • 京都府宮津市喜多の盛林寺の境内に細川家の旧領内で娘・細川ガラシャの元へ運ばれた首が埋葬されたという。


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