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前田利家

前田利家(まえだ としいえ、1538-1599年)は信長・秀吉の家臣。豊臣政権時代には五大老の一人となる。加賀藩主前田氏の祖。

経歴

はやくに織田信長に小姓として仕える。若い頃は短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であったという。

信長が尾張統一する以前の戦いから多くの武功を立てていった。まず、萱津の戦い(1552年)では初陣して首級を挙げ、元服して前田又左衞門利家と称した。

稲生の戦い(1556年)では右目下を矢で射抜かれながらも敵兵を討ち取ったという。浮野の戦い(1558年)でも功をあげ、戦後に赤母衣衆筆頭に抜擢された。また、同年、従妹であるまつ(芳春院)を正室に迎えた。このころから”槍の又左”の異名がついた。

手癖の悪い信長の異母弟・拾阿弥を斬殺したため、出仕停止処分となった。桶狭間の戦い(1560年)、森部の戦い(1561年)と続けて無断参戦し、それぞれ功をあげたことで信長から帰参を許された。

その後、長兄・利久に代わって前田家の家督を継ぐと、金ヶ崎の戦い(1570年)、姉川の戦い(1570年)、春日井堤の戦い(1570年)、一乗谷城の戦い(1573年)、第三次長島侵攻(1574年)、長篠の戦い(1575年)、越前一向一揆攻め(1575年)と功を重ねていき、佐々成政・不破光治らとともに府中三人衆として越前府中に所領を与えられ、北陸方面軍団の長となった柴田勝家の与力となった。
以後、府中三人衆として北陸方面の攻略の他、石山合戦や播磨国平定、荒木村重の討伐などにも従軍。
1581年(天正9年)には能登一国を与えられ、七尾城主となる。その後、七尾城を廃城して小丸山城を築城した。

豊臣政権下

本能寺の変(1582年)以後、賤ヶ岳の戦い(1583年)では勝家の与力という立場から、はじめは柴田方として布陣したが、旧交のあった秀吉との対立に悩み、途中で突然撤退して越前・府中城に籠もって後に降伏。戦後に秀吉から加増され、小丸山城から加賀・尾山城(のちの金沢城)に移った。

以後、秀吉に従い、小牧・長久手の戦い(1584年)では北陸方面の守備を任され、末森城の戦いで佐々成政を撃破し、続く翌年の富山の役(1585年)で佐々成政を降伏させた。九州征伐(1586-87年)では幾内を守備、小田原征伐(1590年)では北国勢の総指揮として参戦。戦後は奥羽の鎮圧に務めた。
この間、羽柴姓の下賜、筑前守・左近衛権少将への任官、豊臣姓の下賜、参議への任命、北野大茶湯や後陽成天皇の聚楽第行幸への陪席など、豊臣政権下で次々と地位を上昇させていった。

文禄の役(1592-93年)では名護屋に向かい、途中で渡海の命を受けるも、明との講和の動きが進んだことで結局渡海せず。秀吉の晩年には嫡子・利長に家督を譲って隠居。五大老の一人に命じられ、秀吉の死の間際には豊臣家を託された。

略年表

天文7年(1538年)
誕生。幼名は犬千代。

信長家臣時代

天文20年(1551年)
織田信長に小姓として仕える。
天文21年(1552年)
萱津の戦いで初陣を飾る。その後、元服して "前田又左衞門利家" と称す。
弘治2年(1556年)
織田家中の争いとなった稲生の戦いで功をたてる。
永禄元年(1558年)
  • 浮野の戦いに従軍。
  • 同年、赤母衣衆筆頭に抜擢され、まつ(芳春院)を正室に迎える。
永禄2年(1559年)
信長の異母弟・拾阿弥を斬殺して出奔。出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしとなる。
永禄3年(1560年)
桶狭間の戦いには信長に無断で参加、功を挙げるも赦免されず。
永禄4年(1561年)
森部の戦いでも無断参戦して手柄をたて、帰参を許される。
永禄12年(1569年)
前田家の家督を継ぐ。
元亀元年(1570年)
  • 金ヶ崎の戦いで撤退時に信長の警護を担当する。
  • 姉川の戦いで功を上げる。
  • 春日井堤の戦いで功を上げる。
天正元年(1573年)
朝倉氏を滅ぼした一乗谷城の戦いに従軍。
天正2年(1574年)
第三次長島侵攻に従軍。柴田勝家の与力となる。
天正3年(1575年)
  • 長篠の戦いで鉄砲奉行として参戦。
  • 同年、越前一向一揆を平定。
天正9年(1581年)
能登一国を与えられ、七尾城主となる。
天正10年(1582年)
七尾城を廃城し、小丸山城を築城。同年、本能寺の変後の織田家の覇権争いでは勝家の与力という立場からそのまま勝家に与する。
天正11年(1583年)
賤ヶ岳の戦いでは、はじめ柴田方として布陣したが、途中、突然撤退して越前・府中城に籠もって後に降伏。

秀吉家臣時代

天正12年(1584年)
小牧・長久手の戦いでは北陸方面の守備を任され、末森城の戦いで佐々成政を撃破。
天正13年(1585年)
富山の役で佐々成政を降伏させる。
天正14年(1586年)
羽柴姓を賜り、筑前守・左近衛権少将に任官。
天正14-15年(1586-87年)
豊臣政権による九州征伐では幾内を守備。
天正16年(1588年)
豊臣姓を下賜される。
天正18年(1590年)
  • 参議に任じられる。北野大茶湯や後陽成天皇の聚楽第行幸にも陪席。
  • 小田原征伐では北国勢の総指揮として参戦。
  • 戦後は奥羽の鎮圧に務める。
文禄元-2年(1592-93年)
文禄の役では名護屋に向かい、途中で渡海の命を受けるも、明との講和の動きが進んだことで結局渡海せず。
文禄3年(1594年)
従三位に叙位、権中納言に任ぜられる。
慶長3年(1598年)
嫡子・利長に家督を譲って隠居。秀吉から五大老の一人に命じられる。
慶長4年(1599年)
  • 大坂城に入って秀頼の傅役となる。
  • 秀吉の遺命を破り、婚姻政策を進める徳川家康と対立、諸大名が利家と家康の両屋敷に集結する騒ぎとなるが、和解。
  • 同年に病死。享年62。


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