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信長、清洲城を乗っ取る
──天文24年4月(1555年)

清洲城

天文24年(1555年)、清須城で孤立した坂井大膳は、信長の叔父・信光に接近し、清須城に入って彦五郎信友と並んで守護代の職に就いてもらおうとした。

これは弾正忠家の力を削ぐべく、信長と信光を分離させようと謀ったものであるが、信光はすでに信長と内通して清須城乗っ取りを計画しており、乗っ取り成功時には尾張下四郡のうちの二郡をもらう約束をしていたという。

四月二十日、信光は坂井大膳がお礼に南櫓へ来たら討ち取ろうと、兵を隠して配置し、待っていた。大膳は城中まで来たが、異様な気配を察して風をくらって逃げ去り、そのまま駿河へ行って今川義元を頼り、居ついてしまった。 次に信光は、守護代織田信友を追い詰めて切腹させ、清洲の城を乗っ取り、信長に引き渡して、自分は那古野の城に移った。

こうして信光は同年4月20日に清須城へ入り、南櫓に居を定めた翌日に難なく城の乗っ取りにあっけなく成功し、にわかに身の危険を察した坂井大膳はそのまま城を出奔して駿河まで逃れ、その後は歴史から名を消すことになった。
一方で守護代の織田信友は切腹。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城を叔父・信光に譲って移し、自らは清洲城への入城を果たすのであった(『信長公記』)。

--織田信次の過ち--

信光が那古野城に移ったあとの守山城には織田孫十郎信次が入っている。しかし、その信次は同年6月26日に家臣が誤って信長の弟・喜六郎秀孝を殺害してしまったため、成敗を恐れて出奔してしまったという(『信長公記』『織田家雑録』など)。

--不可解な信光の死--

清洲乗っ取りの約半年後の11月26日、尾張統一を目指す信長にとってあまりにも好都合な事件が起きた。

尾張下四郡のうちの二郡を与える約束をしていた叔父の織田信光が那古野城で家臣・坂井孫八郎に暗殺されてしまったというのである(『享禄以来年代記』)。
この事件は諸史料で「不慮の死」と書かれているだけで死因に触れられていない。ゆえに、この謎の死は信長の謀略による見方が強いのである。

・・・こうして信長は尾張下四郡を手に入れたのであった。


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