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佐々成政

佐々成政(さっさ なりまさ、1536?-1588年)は織田信長の家臣で尾張比良・越中富山城主。若い頃から戦功を重ねて活躍し、前田利家や不破光治とともに "府中三人衆" となった。しかし、信長死後は秀吉とことごとく対立する。

賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家方つき、小牧・長久手の戦いでも途中で秀吉を裏切って家康に転じた。その後、富山の役で秀吉に攻められて結局は秀吉に降る。その後、九州征伐による功で肥後一国を拝領したが、失政により最期は切腹となった。

経歴

佐々成政の誕生年は尾張の子孫の系譜で1534年(天文3年)とされているが、定かではない。
他の諸史料では1512年(永正9年)、1516年(永正13年)、1539年(天文8年)など諸説入り乱れている。

成政の出自

佐々氏は尾張国・春日井郡比良村(=現在の愛知県名古屋市西区比良)の土豪であり、その出自は平氏とも菅原氏(余語氏)ともいわれるが、近江の佐々木六角家の一門とする見方が有力なようである。
成政の父は余語盛政とされるが、盛政の出自は佐々木氏とされている。

応仁の乱(1476年)の後、尾張守護の斯波氏・守護代の織田氏が佐々木六角家の討伐を開始したとき、余語盛政は本家六角氏に背いて織田氏に味方したといい、織田氏が尾張に戻るのに従って尾張国へ入り、尾張春日井郡比良の地と佐々の姓を与えられて "佐々成宗" と名乗ったという。

兄とともに織田家に仕える

成政には "政次" と "孫介"という2人の兄がおり、ともに織田信秀に仕えるようになる。

このころの信秀は斎藤氏や今川氏とたびたび戦い、1542年(天文11年)には第1次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利を収めるなど、徐々に勢力を拡大していた。

政次と孫介も「小豆坂の七本槍」といわれて後世に名を残す活躍をしたようである。一方の成政は三男であったからか、部屋住みの身分で自由気ままに過ごしていたようであり、比良城の客分であった学者・千田吟風(せんだぎんぷう)から古今の名将の武功や言行、そして兵法などを学んでいたという。

こうした中、織田家では当主・信秀が死没してしばらく経った1556年(天文11年)には 織田家中の内紛・稲生の戦いが勃発。このとき佐々兄弟は信長に味方して戦ったものの、兄・孫介が討ち死にしてしまう。
一方で成政はこの戦いで初陣を果たしたと伝わっている。

その後、成政は1558年(永禄元年)に勃発した信長の尾張国統一の戦いのひとつ・浮野の戦いにも参戦。また、翌1559年(永禄2年)には成政の朋友・犬千代(=のちの前田利家)が信長の寵愛を受けた同朋衆の拾阿弥といざこざを起こし、拾阿弥を殺害し、信長から勘当されて浪人暮らしとなったが、このとき成政が一時、比良城で犬千代を匿ったという。

桶狭間と家督相続

1560年(永禄3年)に信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち、その名を全国に轟かせた。このとき兄・政次は合戦の序盤に討ち死に覚悟で攻撃して討ち死にした。

こうして2人の兄を失った成政であるが、悲しみに暮れる暇もなく、佐々家の家督を継いで比良城主となるのであった。

次々と転戦・武功を重ねていく

尾張国を統一し、今川義元を破った信長の次の戦いは美濃国の斎藤氏であった。

信長の小姓・馬廻り衆として仕えていた成政は森部の戦い(1561年)をはじめ、美濃攻略に戦いにたびたび参戦して戦功を重ねていった成政は1564年(永禄7年)ごろには黒母衣衆に抜擢され、信長が足利義昭を擁して上洛した1567年(永禄10年)には黒母衣衆筆頭になっている。

成政は1568年(永禄11年)に信長と足利義昭による上洛に従軍し、六角氏が途中でこれを阻もうとした観音寺城の戦いに参加。
信長は無事上洛を果たし、15代将軍・足利義昭を誕生させた。

1569年(永禄12年)には伊勢攻略に従軍、さらに1570年(永禄12年)には越前国の朝倉攻めの際、"金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)" と呼ばれる撤退戦で鉄砲隊として殿軍の羽柴秀吉を支援している。
この戦いは信長義弟の浅井長政が突如離反したことで浅井・朝倉の両方から挟み打ちの危機に直面したことで撤退を余儀なくされたのであった。

その後、信長による浅井長政への報復戦となった姉川の戦い(1570年)、朝倉を滅ぼした一乗谷城の戦い(1573年)、浅井を滅ぼした小谷城の戦い(1573年)、第三次長島侵攻(1574年)など、多くの合戦に従軍した。

第三次長島侵攻(1574年)では嫡男・松千代丸を失っている。

1575年(天正3年)の長篠の戦いでは鉄砲奉行として武田勝頼を撃退するのに貢献。同年の越前一向一揆にも従軍し、その功によって越前府中に所領を与えられ、小丸城を築城して居城とした。

また、成政は前田利家・不破光治と合わせて府中10万石を与えられ、府中三人衆と呼ばれる彼らは北陸方面軍団の長となった柴田勝家の与力とされた。

北陸方面軍団として

以後、北陸方面の攻略に携わるが、一方で石山合戦や播磨国平定、荒木村重の討伐・有岡城の戦い(1578-79年)などにも従軍するなど、府中三人衆は半ば独立した存在であった。

1580年(天正8年)には、このころ既に信長の臣下になったとみられる越中の神保長住への加勢を命じられ、越中国平定に務めている。神保長住は成政の配下となった。

1581年(天正9年)には越中の全権を委ねられ、富山城を居城とした。このとき越中守護に就いたとみられている。その後は京都の馬揃えのために上京したが、その隙に上杉家臣・河田長親に小出城を攻撃された。
これに対して成政は即座に越中へ救援に向かうと、上杉方は越後へ退却している。

1582年(天正10年)に柴田勝家率いる北陸方面軍団が上杉方の魚津城を包囲。

しかし、成政の留守中に富山城を預かる神保長住が寝返った小島職鎮らに城を乗っ取られ、長住は幽閉されるという事件が勃発したため、成政らは一旦、魚津城包囲を解いて富山城へ向かい、これを奪い返している。

その後、再び魚津城を包囲した成政らは同年6月3日にこれを攻略した(魚津城の戦い)
しかし、京都ではその前日の6月2日に本能寺の変が勃発し、信長は非業の死を遂げていたのであった。

成政らは6月4日に信長の死を知り、自領へ帰っていった。

信長死後

信長死後に柴田勝家と羽柴秀吉による織田家の覇権争いがはじまる。

1583年(天正11年)、その両者の決戦では勝家に味方して援軍を送るなどしたが、最期は勝家の死によって秀吉に降伏した(賤ヶ岳の戦い)

1584年(天正12年)には秀吉と仲互いした信長二男・織田信雄が家康に接近し、羽柴秀吉勢と家康・信雄連合の戦いが開始されると、成政は秀吉から離反して信雄らに味方して前田利家の末森城を攻撃した(小牧・長久手の戦い)

この戦いは秀吉陣営と家康陣営による大規模な合戦であり、尾張国を中心として、美濃、伊勢、紀伊、和泉、摂津など各地で戦いが繰り広げられたが、その結末は意外な形で幕を閉じる。

信雄が単独で降参して秀吉と和睦してしまったのである。

これを知った成政は急遽、厳冬のアルプス越えを敢行して浜松へ赴いて家康に再挙を説いた。これがいわゆる "さらさら越え"である。

必至の説得も空しく失敗に終わり、再度秀吉を敵に回すことになってしまった。

翌1585年(天正13年)には秀吉の10万もの大軍が攻め込んできて富山城を包囲されると、成政はなすすべもなく降伏して秀吉の前にひれ伏した(富山の役)
戦後は越中の所領を大きく削減され、さらに、妻子と共に大坂に移住させられることとなった。

秀吉が九州平定(1587年)を果たした際には肥後一国を与えられ、国主に返り咲いた。しかし、性急な改革を行なったことで肥後国人一揆(1587年)が勃発、その失政により、切腹を命じられた。

略年表

  • 1536年(天文5年)、誕生。(※諸説あり)
  • 時期不明、織田信長に仕える。
  • 1560年(永禄3年)、家督を継いで比良城主となる。
  • 1561年(永禄4年)、森部の戦いで功を立てる。
  • 1567年(永禄10年)、黒母衣衆に抜擢される。
  • 1570年(元亀元年)、姉川の戦いに従軍。
  • 1574年(天正2年)、第三次長島侵攻に従軍、長男・松千代丸を失う。
  • 1575年(天正3年)、長篠の戦いでは鉄砲隊を率いる。その後、越前一向一揆にも従軍。柴田勝家の与力となる。
  • 1577年(天正5年)、手取川の戦いに従軍。
  • 1578-79年(天正6-7年)、有岡城の戦いに従軍。
  • 1580年(天正8年)、越中国平定に関わる。
  • 1581年(天正9年)、越中半国、神保長住の失脚後は一国を任せられる。
  • 1582年(天正10年)、富山城を居城として大規模な改修を行う。同年、魚津城の戦いに従軍。本能寺の変後の織田家の覇権争いで勝家方につく。
  • 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いには兵600を援軍として出すにとどまり、秀吉に降伏。
  • 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いでは急遽、徳川家康および織田信雄方につき、前田利家の末森城を攻撃(末森城の戦い)。
  • 1585年(天正13年)、富山の役で秀吉に降伏。以後、妻子と共に大坂に移住させられ、御伽衆として秀吉に仕える。
  • 1587年(天正15年)、羽柴の名字を与えられる。同年、九州征伐の功により肥後一国を与えられるが、太閤検地の実施で肥後国人一揆を誘発した責を咎められ、切腹を命じられる。


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