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荒木村重

荒木村重(あらき むらしげ、1535-1586年)は織田信長の家臣。はじめ摂津の池田勝正に仕えた。信長が上洛して摂津三守護(池田勝正・伊丹親興・和田惟政)を置くが、これに代わって台頭し、信長に仕えて摂津一国を支配するまでになる。

その後、突如信長に反旗を翻して居城の有岡城へ籠城。

織田と敵対する毛利氏と通じたが、結果的に敗れた村重は妻子や家臣らを失ったあげく、自らは毛利氏を頼って亡命した。

信長の死後は秀吉に召し出され、大坂で千利休の弟子として茶人として余生を送った。利休十哲の1人でもある。

経歴

村重は1535年(天文4年)に池田(=現在の大阪府池田市)で生まれ、幼名を十二郎といった。

荒木氏は波多野氏の一族とされ、父・荒木信濃守義村は摂津国・池田城主の池田家に仕えていた。村重は当主・池田勝正に仕え、のちに池田長正の娘を娶って池田一門衆となった。

1568年(永禄11年)、織田信長が足利義昭を奉じて敵対する三好三人衆らを追い出して上洛を果たすと、主君・池田勝正が信長に降伏して村重もこれに従い、間接的に信長の家臣となった。

上洛後、信長は摂津国に池田勝正・伊丹親興・和田惟政の3名を "摂津三守護" として置き、摂津支配の安定を図っている。

主君・池田勝正を追放し、信長から離反

1569年(永禄12年)には信長に対して三好三人衆の反撃がはじまる。

京の奪回を図る三人衆らは信長の留守を狙い、将軍・足利義昭の仮御所の本圀寺を包囲したのだ(本圀寺の変)

これに対し、義昭の本國寺の警護を任されていた明智光秀らは本圀寺に立て籠もって奮戦し、劣勢の中でかろうじて三人衆らの攻撃を防いでいた。やがて細川藤孝、三好義継、池田勝正、伊丹親興ら織田の援軍が畿内各地から到着すると、織田軍が優勢となって三人衆を再び撃退した。

このとき村重も池田勝正に従軍し、三好三人衆の撃退に貢献している。

1570年(元亀元年)、信長は"第一次信長包囲網"と呼ばれる窮地に陥る。

朝倉義景を攻めたことで義弟の浅井長政に寝返られ、浅井・朝倉連合との戦いに突入すると、さらに近江の六角義賢・義治父子の反撃にも付き合わされた。そして三好三人衆らが再び反撃を開始すると、これに本願寺勢力が加勢に加わって、各地で周辺勢力と戦うことを余儀なくされたのである。

こうした中、村重は池田知正と共に三人衆に通じて主君の池田勝正を追放して池田家を掌握するようになった。このとき信長と三好三人衆・本願寺連合との戦い(野田城・福島城の戦い。いわゆる石山合戦)に村重は登場してこないが、村重も信長と敵対関係となったとみられている。

『荒木略記』によれば、勝正は武勇に優れているわけでなく、作法もよくなかった。前年の本圀寺の変のときの戦いでも部下が手柄を立てる中、勝正は1人丹波へ落ち延びていったといい、"このままでは池田家は伊丹・和田に取られてしまう" と心配した村重が家中の中川清秀と相談して勝正を追放するに至ったという。
また、勝正は池田豊後守・池田周防守を殺した上で大坂に出奔。その後、三好義継に伴われて上洛して足利義昭に拝謁したという(『言継卿記』)。

その後、村重は新たな主君・池田知正とともに摂津国内で勢力拡大をはかり、1571年(元亀2年)には摂津三守護の1人・和田惟政らに勝利し、織田信長に敵将ながら一目置かれる存在となった(白井河原の戦い)。

もともと池田と和田は仲が悪く、以前から小競り合いを繰り返していたという。

こうして摂津では、信長が任命した摂津三守護は勢力を失い、代わりに荒木村重とその配下の中川清秀、高山右近らが歴史の表舞台へ登場してくるのである。

同年の津田宗及主催の茶会の史料があるが、その出席者に村重と三好三人衆の一人・岩成友通の名がある。こうしたことから村重と三好三人衆はこの時点で敵対していないことが推測できる。

信長に仕える

1573年(天正元年)、信長と仲互いした将軍義昭が二条城に篭って挙兵した。

これに信長は義昭に和睦を持ちかけたが拒否されたため、やむなく京へ出兵。このとき村重は幕臣の細川藤孝らとともに信長を出迎えて忠誠を誓っている。
一方の村重の主君であった池田知正は細川藤孝の説得にも耳を傾けずに将軍義昭に味方し、信長と対立した。しかしのちに信長に降って村重の家臣となり、立場が逆転している。

また、このころ村重は尼崎(=現在の兵庫県尼崎市)の本興寺と長遠寺に禁制がだされており、その内容に徳政(=債務免除の政策のこと)や国質(=債務の賠償として私的に差し押さえる行為)などが含まれていたことから尼崎を支配していたことがうかがえる。

信長と義昭との戦いでは村重・細川藤孝らは二条城を包囲して、上京に放火するなどして従軍している。 結果、義昭は信長に屈し、室町幕府は事実上滅亡となった(槇島城の戦い)

同年、義昭は追放されて妹婿の三好義継を頼って河内国へ逃れたが、義継とともに再び反信長の姿勢をみせた。このため信長は若江城へ攻めて三好義継を討ったが、この戦いで村重は功をあげた(若江城の戦い)
ちなみに義昭は近臣だけを連れて堺へ逃亡している。

翌1574年(天正2-4年)に村重は伊丹城を攻めて陥落させ、伊丹城を有岡城と改めて城主の座につき、織田政権下で摂津一国を任されて国持大名となったのである。

石山合戦・中国攻めで活躍

1575年(天正3年)には第二次石山合戦といわれる高屋城の戦いや越前一向一揆で先陣を務め、織田軍の勝利に貢献している。

1576年(天正4年)の天王寺の戦いでは、信長から先陣を命じられた村重は木津方面の守備を引き受けるからと言ってこれを断っている。のちに信長は”村重に先陣をさせなくてよかった”と言ったという。

村重の先陣を断った理由や信長の真意はわかっていない。

1577年(天正5年)の信長の雑賀攻めは軍勢を山手と浜手の二つに分けたが、村重は佐久間信盛や羽柴秀吉らと同じ山手に配属されている。

反旗を翻して籠城

1578年(天正6年)、村重は秀吉の推薦もあって、信長の命で本願寺との和睦交渉の使者として石山城に入った。

村重は本願寺顕如と親しい間柄であったことと中国攻めでの働きが秀吉の推薦理由とされている。

しかし、村重の和睦交渉は不発に終わる。それどころか村重は本願寺側に兵糧を懇願され、家臣に兵糧を本願寺に送り届けるように命じたという。

そして、同年5月には織田に臣従していた播磨の別所氏が謀反を起こし、三木合戦(1578-80年)が勃発。そしてまもない10月には村重も信長に反旗を翻し、居城・有岡城に籠城した(有岡城の戦い)

この報を聞いた信長は驚愕し、説得の使者をたびたび向かわせたが村重はこれに応じなかった。謀反の理由は諸説あって定かではない。

このとき黒田官兵衛も村重の説得にあたったが、逆に有岡城で幽閉されてしまう。官兵衛が説得へ向かったのは、主君の小寺政職が村重に呼応して信長から離反しようとしていたからであった。

翌1579年になっても村重は籠城を続けたが、毛利氏と援軍を約束しながらも、頼みの毛利援軍は来ずに兵糧も少なくなってきていた。

そして、毛利の援軍を乞うように家臣らから頼まれた村重は数人の従者とともに有岡城を脱出して嫡男・村次の居城・尼崎城へ移ったが、有岡城は織田軍の調略によって陥落させられた。

その後、織田方は村重の妻子を人質として、村重に対して尼崎城や花隈城を明け渡せば妻子らの命を助ける、と交渉を持ちかけようと村重家臣らに尼崎城へ向かわせたが、村重はその家臣らを尼崎城内へ入れることすらせず、伝言すらできなかった家臣らはそのまま行方をくらましてしまった。

有岡城に残された女房衆や荒木一族らは無残にも処刑され、村重は尼崎城も追われ、摂津最後の城となった花隈城の戦い(1580年)でも敗北し、毛利氏の元へ亡命したという。

信長死後

本能寺の変(1582年)での信長横死後、秀吉に堺に招かれて居住し、出家して荒木道薫(どうくん)と称した。

また、茶道を千利休に学んで茶人となり、武人に戻ることなく、その生涯の幕を閉じたのであった。

略年表

  • 天文4年(1535年)、誕生
  • 時期不明、はじめ池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り、一族衆となる。
  • 永禄12年(1569年)、本圀寺の変では足利・織田方の援軍として参戦。同年、池田知正と共に三好家に寝返り、池田勝正を追放して池田家を掌握する
  • 元亀2年(1571年)、白井河原の戦いで勝利。
  • 天正元年(1573年)、茨木城主となって織田信長に再び従属。同年、若江城の戦いで功を挙げる。
  • 天正2年(1574年)、伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任される。
  • 天正3年(1575年)、高屋城の戦い(第二次石山合戦)に参戦。
  • 天正4年(1576年)、天王寺の戦いに参戦。
  • 天正5年(1577年)、紀州征伐に参戦。
  • 天正6年(1578年)、信長に反旗を翻す。
  • 天正7年(1579年)、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城・尼崎城へ移る。有岡城に残された女房衆らは処刑される。
  • 天正8年(1580年)、花隈城の戦いで敗北し、毛利氏の元へ亡命。
  • 天正10年(1582年)、信長死後、堺に戻って居住。
  • 時期不明、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもつ。
  • 天正14年(1586年)、5月4日に堺で死去。享年52。


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