丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「河尻秀隆」信長嫡男・信忠の補佐役を務めた黒母衣衆筆頭

河尻秀隆の肖像画
信長に仕えて黒母衣衆筆頭を務め、武田滅亡後に甲斐一国を与えられるほどの将だった河尻秀隆。だが、最期はあまりにも●▲×だった?

織田家に仕え、信長の元で黒母衣衆に抜擢

秀隆は1527年(大永7年)に美濃国で誕生。幼名は "与兵衛"といい、のちに "鎮吉"、"重遠"と名乗ったとされている。

秀隆の幼年期、そして河尻氏の出自はその多くが謎につつまれている。

美濃出身の土豪の一族である河尻氏の出自は諸説あり、ひとつには醍醐天皇の流れを汲む醍醐源氏で肥後国河尻庄が発祥の地といい、他には清和源氏の一流である大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏・石川有光(源有光)の子孫というものもある。

秀隆の父は河尻重親、母は尾張守護代の一族であった織田信敏の娘と伝わっており、このころには既に美濃に移り住んでいたことがうかがえる。

秀隆は当初、織田大和守信武に仕え、その後は台頭してきた織田信秀に仕えたようであり、1542年(天文11年)には今川氏を相手に16歳で初陣を飾っており(第1次小豆坂の戦い)、1548年(天文17年)の第2次小豆坂の戦いにも参戦している。

『河尻系図』によれば、美濃の斎藤道三とも戦ったとある。

信秀の死後は信長に仕え、馬回りの武将として功を重ねていく。

1557年(弘治3年)には信長との家督相続争いに敗北した弟・織田信勝(信行)が再び謀反を企てたが、一説にこのとき信長の命で信勝の殺害を実行したのが秀隆といわれている。

1560年(永禄3年)に信長が今川義元を討った桶狭間の戦いに従軍、1564年(永禄7年)からは丹羽長秀とともに美濃攻略戦に携わり、翌1565年(永禄8年)の猿啄城攻めでは落城させ、堂洞城攻めでは天主に1番乗りの戦功をたてた。

こうして功を重ねた秀隆は、信長が美濃平定を成し遂げた1567年(永禄10年)頃に黒母衣衆として抜擢され、しかもその筆頭となったのである。

織田政権下で功を重ねていく

信長が足利義昭を奉じて上洛し、織田政権の樹立となった1568年(永禄11年)以降は各地を転戦していく。

1569年(永禄12年)の北畠氏攻略に従軍、そして翌1570年(元亀元年)姉川の戦いで織田軍が勝利した後は信長が浅井の支城・佐和山城の近くに砦を築いて丹羽長秀を入れたが、このとき秀隆も佐和山城の監視を命じられている。

また、同年に浅井・朝倉と長期に対峙した志賀の陣にも従軍した。

1572年(元亀3年)には信長の縁戚で美濃岩村城の城主の遠山景任が子供のないまま病死した。このとき信長は秀隆や織田信広を派遣して3歳の五男・坊丸(のちの織田勝長)を遠山家の養子として送り込んだが、事実上は信長の叔母で景任正室であった おつやの方 が城主を務めた。

しかし、同年10月に武田信玄が西上作戦で徳川領への侵攻を開始すると、おつやの方が武田に寝返ったことで岩村城は武田家臣・秋山虎繁の攻撃を受け、坊丸は武田氏の人質として甲斐へ送られてしまった。

信長の後継者・信忠の補佐役へ

1574年(天正2年)には信玄の死後、後継者の武田勝頼が岩村城へ進出し、織田方の明知城が包囲されて陥落されられた。直後に信長の命で秀隆が最前線の守備として美濃高野城へ、池田恒興が小里城へそれぞれ入っている。
また、同年には伊勢長島一向一揆の殲滅戦が総動員で行なわれているが、秀隆は武田に備えて参陣していない。

織田・徳川連合が武田軍に大勝した翌1575年(天正3年)長篠の戦いでは設楽原決戦の本隊に属し、信忠に代わって信忠軍の指揮を執るなど活躍。信忠は同年末に信長から家督を譲られているが、秀隆はこのとき既に信忠の補佐役となっていたようである。

長篠の戦いの後、信長の命を受けた信忠軍団は以前、武田氏に奪われた岩村城を陥落させて取り返した。そして秀隆はこの戦いの功により、岩村城を与えられて岩村城主となった。

1579年(天正7年)には信忠とともに謀反を起こした荒木村重攻めも従軍している。

武田滅亡後は甲斐国主になるも、長く続かず・・

1582年(天正10年)に武田家臣の木曾義昌が織田方へ寝返ったのをきっかけに、信長は武田領への侵攻を開始した(甲州征伐)。

織田方には徳川氏・北条氏も与しており、武田勝頼は相次ぐ家臣の離反と織田軍の圧倒的な兵力を前になすすべもなく滅んだ。

また、この戦いは秀隆・池田恒興・森長可らを主力とする信忠家臣団と軍艦の役目を果たした滝川一益によって勝利したものであり、戦後の論功恩賞では、秀隆は信長から穴山信君領を除く甲斐国四郡と信濃国諏訪郡を与えられている。

こうして秀隆は美濃岩村城5万石から甲斐22万石もの国持大名へと大出世を遂げたのであった。

本能寺の変によって奈落の底へ

しかし、武田滅亡のわずか数カ月後に本能寺の変で信長が横死したことを発端として、あまりにもあっけない最期が訪れることになる。というのも、信長の死により、ついこないだまで敵地であった甲斐国において、武田遺臣らによる一揆の危険が極めて高まったのだ。

これに配慮した家康は、秀隆を国外へ逃がそうと本多信俊を使者として遣わせたが、秀隆はこれに応じず逆に信俊を殺害したという。このことにより、甲斐国内では動揺が広がり、一挙に武田遺臣たちによる国人一揆が勃発することになった。

秀隆はこれに応戦しつつ美濃国への撤収を図っていたが、あえなく武田遺臣の三井弥一郎に討たれ、その生涯を終えるのであった。


 PAGE TOP