あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

濃姫

濃姫(のうひめ、1535?-1612?年)は斎藤道三の娘で織田信長の正室。名は江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』などから帰蝶(きちょう)とされている。

経歴

1535年(天文4年)に美濃国主・斎藤道三と明智光継の娘・小見の方の間に誕生。

1544年(天文13年)、父・道三が美濃国井ノ口で織田信秀との戦いに勝利(加納口の戦い)
大敗した織田家は家臣・平手政秀の働きもあり、信秀の嫡男・信長と帰蝶(濃姫)を縁組させることで政略結婚をまとめ、和睦することに成功した。また、このときの美濃・斎藤方の交渉役は明智光安だったという。帰蝶(濃姫)はこれにより信長の許嫁となったとされている。

1553年(天文22年4月)には、織田信長と斎藤道三が正徳寺にて会見を行っている。

信長に嫁いだ後は謎に包まれている

濃姫の名の由来は「美濃から嫁いできた姫」というもので実名は不明。結婚後は突如、歴史の表舞台から消えたため、その実像は謎に包まれており、様々な推測がなされている。

信長との間には子ができなかったのが通説だが、娘がいたという文献があることや、信長の子供は生母不明の者も多いことから本当に子がいなかったかどうかは不明である。『勢州軍記』には、濃姫に男児はなかったため、信長の側室・生駒吉乃(いこま きつの)が産んだ織田信忠を濃姫の養子に迎えて嫡男としたとの記述がある。

また、濃姫の死期については「離縁・早世説」と「長寿説」がある。

離縁・早世説

父・道三の死後、政略結婚の意味がなくなったため、信長によって追放され、母方の叔父・明智光安の明智城に身をよせた。しかし、1556年(弘治2年9月19日)に父の敵である斎藤義龍に明智城を攻撃され、光安ら明智一族ともども葬られたとしている。

その一方で離縁を否定する説も存在。父・道三は死の際、「美濃国譲り状」を信長に渡したとされている。正統な道三(美濃国)の後継者という大義名分があった、また、美濃攻略後に信長家臣となった美濃衆は尾張衆同様に扱われていたことから、道三の娘である濃姫との離縁は考えにくいとしている。

長寿説(早世否定)

根拠には以下、いくつか濃姫と思われる人物が生存している史料がある。

  • 『近江國輿地志』には、信長と「御台所」が共に成菩提寺に止宿したという記述が存在(おそらく1568年(永禄11年)頃の記述)。
  • 『言継卿記』には斎藤義龍後家を庇う信長本妻の記述が存在(1569年(永禄12年7月)の記述)。
  • 『氏郷記』『総見院殿追善記』等には本能寺の変直後、避難した信長妻子の中に「御台所」、「北の方」の記述が存在。
  • 『織田信雄分限帳』には「安土殿」という女性が、600貫文の知行を与えられている記述が存在。
  • 『妙心寺史』には、信長公夫人主催で一周忌を執り行った記事が存在。同寺には「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」という記録があるため、法名は「養華院殿要津妙玄大姉」、墓所は「大徳寺総見院」、没年は1612年(慶長17年)ということになる。


 PAGE TOP