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「お市の方」夫を2度失うなど、乱世で悲しき運命をたどった信長の妹。

お市の方の肖像画
日本の歴史を語る上で戦国時代はとても人気が高い。そんな戦国の世に生まれ天下統一を目指した有名な武将・織田信長。そんな信長には妹が存在した。それが戦国一の美女と賞された ”お市の方” である。波乱万丈に満ちた彼女の生涯をまとめた。

出生から結婚まで

お市の方は1547年に織田信秀の娘として誕生した。名は通称で他に「小谷の方」や「市姫」などと呼ばれていたという。父・信秀には24人の子供がおり、13歳上の兄に織田信長がいた。母親は正式には不明であるが、土田御前という説が有力である。

彼女の幼年期から思春期頃の記録は、それを語る歴史的資料が発見されていないためほとんど不明である。お市の方が最初に歴史の表舞台に登場するのは織田家と同盟関係にあった浅井家に輿入れする際であった。婚姻時期については諸説あるが、おおよそ1567年から1568年頃であったと推察されている。相手は浅井家当主の浅井長政。当初長政は六角氏家臣の娘と婚姻関係にあったが、長政と六角氏との関係がこじれ離縁した背景があった。このお市との結婚を巡って六角氏との婚姻関係を望んでいた父と食い違いがあったようであるが、当人同士、長政とお市は大変仲が良かったとされている。お市の結婚時の年齢は齢21と、当時としては晩婚であったため2度目の結婚など何らかの事情があったのではないかと推察されているが、歴史的な確証は残っていない。

結婚した2人の間には後の豊臣秀吉の側室になる長女の茶々、小谷藩藩主・京極高次の正室になった次女のお初、そして徳川家康の息子であり徳川二代将軍であった徳川秀忠の正室になった三女江が生まれている。この三姉妹はその後の日本の歴史に大きく関わっていく人物に嫁ぎ、自らも数奇な運命に翻弄されていくこともあって浅井三姉妹として有名である。

浅井家の滅亡まで

お市の兄・信長は1570年前後から積極的な領土拡大に精を出していた。そんな中、1570年に浅井家と長年友好関係を築いていた越前国の朝倉義景攻めを敢行する。この侵攻には再三の上洛命令に朝倉側が従わないなど織田側にも侵攻の大義名分は存在したが、信長は長政に対して、朝倉攻めは無いと約束していたため結果的に織田家は浅井家を裏切る形になってしまった。 義兄である信長との関係もありとても苦しい立場に置かれた長政であったが、最終的には朝倉側につき織田家に反旗を翻した。ここに織田家と浅井家の同盟は破断する。

この時期のお市の方は自身の兄と夫が敵対関係になり、その立場・去就共に大変難しいものがあったということが容易に想像される。その後、両家の対立は姉川の戦いへと流れてゆくが、その際のお市の方のエピソードとして以下のようなものが残っている。

朝倉を討つべく越前へ侵攻した織田軍を浅井軍が背後から急襲する。その際、お市が小豆入りの両端を縛った袋を陣中見舞いとして信長に送り、「袋の鼠」という状況を暗に伝えて信長を救った──。

このエピソードに歴史的証拠はなく後の想像だとされているが、お市の方が一般的に広く認知されたきっかけの一つとして有名である。

1573年、信長は長政の居城である小谷城を攻め陥落させた。長政は自害し、未亡人となったお市の方と3人の娘たちは織田家に引き取られた。織田家に戻ったお市は兄である織田信包の庇護を受け、3人の娘と清洲城にて9年ほどの平穏な日々を過ごした。

兄信長の死後、勝家と再婚するも・・

1582年、織田家家臣の明智光秀の謀反によって兄の織田信長が本能寺で横死する。その後、台頭してきた羽柴秀吉が織田家家臣の中で実力者となっていく。お市はそれに対抗するように、織田家筆頭家老であった柴田勝家と再婚し、北ノ庄城に3人の娘と共に移った。

お市は浅井家が滅んだ際に、夫である長政と共に長男である万福丸(血の繋がりはないとされる)も失っており、その処置を行ったのが秀吉であったことから秀吉に対して恨みを抱えていた。こうした背景から、この再婚はお市の秀吉に対する恨みからくる再婚であり、信長亡き後の天下を秀吉に取らせないために柴田に肩入れしたという説がある。しかし、柴田勝家の書状に「秀吉と申し合わせて…」との文面が残っており、秀吉が清洲会議での沙汰に不満があるであろう勝家のご機嫌を伺うために策を弄した結果の再婚であろうというのが定説である。

翌1583年、勝家と秀吉の関係悪化により、賤ヶ岳の戦いが勃発。柴田勢は劣勢のため押し込まれ、勝家は北ノ庄城に戻ったが最終的には城内で自害した。この時、お市の方も運命を共にしている。享年37。辞世の句は

さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の夢路をさそふ郭公かな

お市は秀吉に3人の娘の保護を託す旨の書状を送り、娘たちは秀吉によって城から脱出した。 娘たちとの別れの際、お市は「浅井と織田の血を絶やさぬように」と娘たちに言い聞かせ、自分の後を追わぬよう諭したとされている。

なお、お市の方には生存説が残っている。北ノ庄城落城前夜に密かに城を脱出して、近江の国友村の浅井家の残党である人物の案内で伊賀の下友田に移り住み、1599年に没したというものであるが、歴史的根拠はない。


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