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「細川藤孝」元々は幕臣。"幽斎"の名で知られた一流の文化人。

細川藤孝(幽斎)の肖像画
足利一門の名家・細川氏出身で、幕臣として室町幕府再興に尽力した細川藤孝。その後は時代の流れに沿って織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった権力者に仕えた。武人として優れているが、文化人として "幽斎" の名でも広く知られている。

名家に生まれ、幕臣として将軍に仕える

細川藤孝は天文3年(1534年)4月22日に三淵晴員の次男として誕生。細川家は室町幕府の実質的なナンバー2である「管領」という役職につくことができる名門中の名門の家系である。父晴員は将軍の側近・三淵晴恒の養子だったことから三淵姓を名乗った。母は智慶院。ちなみに彼女は元々12代将軍義晴の側室だった関係上、藤孝は足利義晴のご落胤ではないかという説もある。

藤孝は天文15年(1546年)に元服して、その際にのちの13代将軍義輝から「藤」の字をもらい受けて萬吉という幼名から藤孝と名乗るようになる。天文21年(1552年)に従五位下・兵部大輔に叙任され、その2年後に養父の元常が死去したことを受けて弱冠21歳で細川家の家督を相続する。この間に剣術、和歌、茶道、蹴鞠などの武術や教養を身につけていった。

結婚は永禄5年(1562年)頃とみられ、若狭国熊川城主の沼田光兼の娘を正室に迎え、翌年には細川忠興が誕生している。

将軍義昭の擁立に尽力

藤孝は順風満帆に人生を歩んできたところ、人生の転機となる大事件が起こる。それが永禄8年(1565年)松永久秀らのクーデターによって13代将軍義輝が暗殺された永禄の変である。

この非常事態においても、藤孝は兄の三淵藤英とともに幕府に忠節を尽くした。このとき興福寺に幽閉されていた義輝の弟・覚慶(のちの足利義昭)を救い出して、その後は彼を将軍につけるために奔走。その流浪生活はあまりにも厳しいものだったが、藤孝は諸国の大名たちの間を渡り歩いて、将軍擁立を促していくのである。

しかし、名家にもかかわらずあまりにも貧窮していたため、灯籠の油を買うこともできずに社殿から油を恵んでもらうこともしばしばあったという。越前の朝倉義景を頼ることもあって、そのとき朝倉に仕えていた明智光秀と接触。その後、光秀を通じて織田信長に助力を求めた。助力の内容は義昭を征夷大将軍につけてくれないかというものだった。

信長は美濃斉藤氏を倒して天下布武を掲げ、幕府の権威を担ぎ上げて天下統一に大きく乗り出したいところだったので、これを受け入れた。ちなみに、このとき信長は自身の領地のうち今の京都府長岡京にあたる「長岡」を細川藤孝に領地として与えている。

こうして永禄11年(1568年)9月に信長が義昭を奉じての上洛が実現し、15代将軍足利義昭が誕生した。このとき35歳の藤孝も上洛の際に付き従い、以後は反幕府・織田勢力の三好三人衆らと戦っていく。

信長の家臣となる

しかし、天正元年(1573年)には将軍義昭が信長と対立、藤孝にとって2度目の転機を迎えることに。。

兄の三淵藤英は足利義昭側の家臣として参戦、一方で藤孝は幕臣として裏切ることに強い抵抗はあったものの、信長への忠誠心も強く、最終的に信長に恭順することを決意したため、兄弟対立となった。結局、同年7月に将軍義昭が追放されて室町幕府は事実上滅亡、兄の三淵藤英も以後は信長に仕えることになる。

その後も藤孝は信長家臣として幾内各地を転戦。義昭追放直後の8月には第二次淀古城の戦いで三好三人衆の一人・岩成友通を滅ぼし、天正3年(1575年)4月の高屋城の戦い、同8月の越前一向一揆天正5年(1577年)2月の紀州攻めなどに出陣。同年10月の信貴山城の戦いでは、明智光秀とともに信貴山城を攻め落とし、将軍義輝を暗殺した松永久秀を自害に追い込んでいる。

天正6年(1578年)に嫡男の細川忠興と明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)が結婚。天正8年(1580年)には信長から丹後南半国の領有を認められている。天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が討たれた後に、光秀から協力要請を受けるが、藤孝はこれを断っている。そして剃髪して "幽斎玄旨" と号して隠居、同時に家督を嫡男の忠興に譲り、その妻・ガラシャが謀反人の娘ということで幽閉処分にしている。このとき幽斎49歳であった。

豊臣政権時代

隠居後の幽斎は、信長の天下統一事業の後継者となった羽柴秀吉に仕え、茶人の千利休や津田宗及らと交流。天正14年(1586年)には山城の西ヶ岡に3000石を与えられた。また、隠居生活に終始するのではなく、秀吉による天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州征伐にも参戦する等、武将としての活動も引き続き行なっている。

慶長2年(1597年)8月28日に最後の室町幕府将軍の足利義昭が没すると、その葬儀を誰も執り行いたがらなかったため、それを見かねた幽斎が名乗りを挙げて葬儀を主催したという。翌慶長3年(1598年)豊臣秀吉が死去すると、親交のあった徳川家康に近づいて交流。関ヶ原では子の忠興とともに東軍に加担し、田辺城の戦いで指揮をとった。

晩年は京都の吉田で悠々自適な生活を送ったとされ、慶長15年(1610年)にこの世を去った。享年77。


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