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信長の兄弟は全部で11人もいた!

信長にはずいぶんと多くの兄弟姉妹がいたようだ。

各史料によって人数などの情報に差異もみられるが、信長の兄弟に関しては兄が1人で、弟が10人いたことはほぼ一致しているようである。この記事では信長の姉妹は置いといて、信長の兄弟をみていくことにする。
まずは以下に信長の兄弟を年齢順(推定)で一覧にしたのでみてみよう。

  1. 信広(兄・のぶひろ、?-1574年)
  2. 信勝(弟・のぶかつ、?-1557年?)
  3. 秀俊(弟・ひでとし、?~1556年)
  4. 秀孝(弟・ひでたか、1541?-1555年?)
  5. 信包(弟・のぶかね、1543-1614年)
  6. 信治(弟、のぶはる、1545?-1570年?)
  7. 信興(弟、のぶおき、?-1570年)
  8. 信照(弟、のぶてる)
  9. 秀成(弟、ひでなり、?~1574年)
  10. 長益(弟、ながます、1547-1621年)
  11. 長利(弟、ながとし、?-1582年)

上記のように兄弟の生誕年は不明なものが多く、出生順ははっきりしていない。ただ、信広が兄であることは確かなようだ。なお、上記年齢順(推定)は歴史家の谷口氏の見解も参考にしている。

信長の実弟(母が同じ兄弟)とはっきりしているのは信勝だけであり、他の兄弟に関しての生母は定かではない。また、信長が本能寺の変で没した後も生き残った兄弟は信包と長益(のちの有楽斎)のわずか2人だけである。

信長の11人の兄弟の事跡

さて、それでは次に信長の兄弟たちの事跡をそれぞれみていこう。

  信広(兄、のぶひろ)
信長の唯一の兄(庶兄)であるが、生母・生年はともに不明。
三郎五郎と称し、父信秀の西三河攻略後に安祥城を任せられたが、天文18年(1549年)にその安祥城は太原雪斎率いる今川軍に陥落させられ、信広は一時的に捕われた。しかし、まもなく松平竹千代(のちの徳川家康)との人質交換で無事尾張に帰ってこれた。

弘治2年(1556年)には斎膝義龍と通じて信長への攻撃を企てるが、失敗して降伏。その後は信長に忠義を尽し、信を得て厚遇されるようになっていく。
永禄11年(1568年)の信長上洛後には、京で公家と将軍義昭の交渉を任され、元亀元年(1570年)には将軍山城(北白川城)に在城して京の治安維持に務めるなどしている。その後は京の東の美濃岩村城を守備したが、これは武田信玄に攻められて陥落となっている。
天正元年(1573年)の将軍義昭と信長の対立時には、信長の名代として義昭と会見して和睦の実現もさせた。しかし、翌年の伊勢長島一向一揆攻めで討ち死にした。

ちなみに娘は信長の養女として丹羽長秀に嫁いでいる。

  信勝(弟、のぶかつ)
生年不明、信長の実弟で生母は土田御前。『信長公記』では "勘十郎"、系図類には "信行" の名で登場する。
兄の信長とは対照的に母・土田御前から溺愛され、父・信秀の死後には家中で当主としての期待を寄せられるほどの人物であった。 信長が家督を継いだあと、弘治2年(1556年)には重臣の林通勝や柴田勝家らに担ぎだされて信長と戦ったが、敗戦して母の嘆願で信長に赦免されている(稲生の戦い)。

しかし、その後も家督継承の野心を捨て切れずにいた信勝は再度謀反を企てたが、このときはかつての家臣・柴田勝家が信長に密告したことで露見。その背景に信勝の家中では若衆の津々木蔵人が重用され、柴田勝家は次第に疎まれていったようであった。 最期は仮病を装った信長に呼び出されて謀殺された。
没年は弘治3年(1557年)(『寛政重修諸家譜」『織田家雑録』)、永禄元年(1558年)(『信長公記』)の説がある。

  秀俊(弟、ひでとし)
生母と生年は不明。信秀の五男または六男といわれるが定かではない。庶兄の信広とは同腹であったとみられている。喜蔵、安房守と称した。

弘治元年(1555年)に叔父の信次が逃亡した際、後任に柴田勝家の推薦で守山城を任されている。その際に信次の宿老であった角田新五郎と坂井喜左衛門を付けられたが、翌弘治2年(1556年)に角田新五郎が謀反を起こし、自殺を余儀なくされた。
『信長公記』によると、角田新五は坂井弥平次が秀俊の若衆に取り立てられたことを恨み、守山城の塀を修理する際に手勢を入れて秀俊を切腹に追い込んだという。なお、秀俊は織田系図等にみえる「信時(のぶとき)」なる人物と同一人物との見方もある。

  秀孝(弟、ひでたか)
生母は不明、生年は天文10年(1541年)頃とみられている。 信秀八男と伝わるが、歴史家の谷口氏は信包より年上のために五男が妥当だとみている。

弘治元年(1555年)、喜六郎と称した秀孝が従者を伴わず、龍泉寺城の近くで馬を乗りまわしていたところ、その様子をみた叔父の織田信次と家中の者らに無礼者として殺害された。まだ15、6歳であったという。信次らは相手が信長の弟・秀孝だとわかると、報復を恐れて居城に戻らずに逃亡している。

秀孝の容姿は色白で美しく、気品あふれる顔・体つきであったと伝わる。

  信包(弟、のぶかね)
天文12年(1543年)生まれ。生母は信長と同じ土田氏とみられているが定かでない。信秀四男と伝わるが、歴史家の谷口氏は秀孝に次ぐ六男とみている。
永禄11年(1568年)の信長の北伊勢侵攻の際、養子として北伊勢の豪族・長野氏の名跡を継ぎ、"長野三十郎"と称した。翌永禄12年(1569年)の信長による北畠攻めに従軍、その後も長島一向一揆攻め、越前一向一揆攻め、雑賀攻め、石山本願寺攻め、伊丹城の荒木勢との対戦等、多くの戦いに従軍して功をあげている。
天正9年(1581年)の京都馬揃えでの序列は織田信忠、織田信雄に続いて3番目に位置していた。

信長死後は秀吉に仕えたが、文禄3年(1594年)に改易処分で近江2万石に移封となると、出家して「老犬斎」と称し、その後は秀吉御伽衆となっている。
関ヶ原合戦では西軍に属したが、家康からの御咎めはなかった。最期は慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前に大坂城内で吐血して急死した。享年72歳。

  信治(弟、のぶはる)
生母は不明。系図類では天文14年(1545年)生まれの信秀五男とされるが、谷口氏は七男の可能性があるとみている。九郎を称し、尾張国野夫(愛知県尾西市)の城主を務めたとされる。

元亀元年(1570年)に姉川の戦いに参陣、その後まもなく信長は摂津国で挙兵した三好三人衆らと戦うが、その最中に浅井・朝倉連合が近江の宇佐山城に進軍してきた。このとき信治は京都から兵二千を率いて援軍に向かったが、宇佐山城を守備する森可成とともに討死を遂げた。このとき26歳であったというが定かでない。

  信興(弟、のぶおき)
生年と生母は不明で、信秀七男と伝わる。織田彦七と名乗り、尾張の小木江城の城主だったようである。
元亀元年(1570年)に信長が近江で浅井・朝倉と長期対陣中(志賀の陣)、本願寺顕如がこれを機に伊勢で長島一向一揆を起こさせた。このとき小木江城に一揆勢が押し寄せ、無念と覚悟を決めた信興は最期に切腹して果てた。

  秀成(弟、ひでなり)
生年と生母は不明。信秀八男(または九男)といわれ、津田を苗字として津田信成(つだ のぶなり)と称した。
事蹟については天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆征伐で討ち死にしたということしかわからない。このとき一揆軍に対する総攻撃実施で海上から攻め入り、討死を遂げたという。ちなみに兄・信広、従兄妹の信成らもこの海上からの攻撃で討死している。

  信照(弟、のぶてる)
生没年、生母ともに不明であり、事跡はほとんど残されていない。
『尾張志』によると、三河の土豪・中根氏の養子となり、中根越中守と称し、常に屋敷から出ることなかったという。 また、ただ1匹しかいない馬を50余匹いると豪語し、下男に命じて1匹の馬を1日に数10回も引き出しては終日にわたって洗わせ、いかにも馬が沢山いるように見せかけたともいう。

天正9年(1581年)の京都馬揃えでは騎馬10騎を従えて行進している。また、熱田神宮には文禄3年(1594年)7月7日に信照が寄進したという長刀が残ると伝わっている。

  長益(弟、ながます)
千利休から茶道を学び、茶人として名を残した「織田有楽斉」の名で知られる。

生母不明、天文16年(1547年)生まれ。 信秀十男とも十一男とも伝わる。

天正9年(1581年)の京都馬揃えに参列、翌天正10年(1582年)の甲州征伐では甥の織田信忠に従軍して木曾口から侵入、降伏した武田方の深志城の受け取り役なども務めている。同年の本能寺の変では信忠とともに二条御所にいたが、脱出して岐阜へ逃れている。その後は織田信雄に仕え、検地奉行をつとめたという(『織田信雄分限帳』)。

天正18年(1590年)、秀吉が北条を滅ぼしたのちに信雄が尾張を改易されると、秀吉に仕えた。 このころに出家して "有楽斉" と号した。秀吉の御伽衆となり、天正20年(1592年)の朝鮮出兵の時には肥前の名護屋に駐屯している。
関ヶ原の戦いでは家康方の東軍に属し、戦後に大和国で三万石の大名となり、一方で豊臣家に出仕を続けて淀殿をサポートした。家康と豊臣秀頼の二条城での対面や大阪の陣(1614-15年)での和平交渉に尽力した。
元和7年(1621年)に75歳で他界した。現在の東京の有楽町は、有楽斉の江戸屋敷があったことに由来している。

  長利(弟、ながとし)
生年生母ともに不明。信秀十一男(または十二男)という。津田姓を称し、名を又十郎と称した。実名「長則」とも伝わる。
天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆征伐に従軍、のちの天正9年(1581年)の京都馬揃えにも御連枝衆の一員として参列している。 翌年の本能寺の変で二条御所で信長嫡男の信忠とともに討死した。

ちなみに娘は織田信雄の側室となり、82貫文を与えられている(『織田信雄分限帳』)。



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