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信長の妻と子供たち

信長の妻子について、まずは以下に系図と一覧で示したのでざっくりみてみよう。

信長の正室・側室は以下のとおりである。

  1. 濃姫(正室、1535?-?年)
  2. 生駒吉乃(継室、1528?-66年)
  3. 慈徳院(側室、?-?年)
  4. 坂氏(側室、?-?年)
  5. 養観院(側室、?-?年)
  6. お鍋の方(側室、?-1612年)
  7. 土方氏(側室、?-?年)

正室の濃姫は斎藤道三の娘。側室は織田信忠の母である生駒吉乃をはじめ、上記以外にも数多くいる。

次に信長の子どもたちは以下。

  1. 信忠(嫡男、のぶただ、1555?-82年)
  2. 信雄(二男、のぶかつ、1558-1630年)
  3. 信孝(三男、のぶたか、1558-83年?)
  4. 秀勝(四男、ひでかつ、1569-86年)
  5. 勝長(五男、かつなが、?-82年)
  6. 信秀(六男、のぶひで、1571?-1597年以降)
  7. 信高(七男、のぶたか、1576-1603年)
  8. 信吉(八男、のぶよし、1573-1615年)
  9. 信貞(九男、のぶさだ、1574-1624年)
  10. 信好(十男、のぶよし、?-1609年)
  11. 長次(十一男、ながつぐ、?-1600年)
  12. 徳姫【松平信康室】(長女、とくひめ、1559-1636年)
  13. 相応院【蒲生氏郷室】(二女、そうおういん、1561-1641年)
  14. 永姫【前田利長室】(三女、えいひめ、1574-1623年)
  15. 報恩院【丹羽長重室】(四女、ほうおんいん、1574-1653年)
  16. 秀子【筒井定次室】(六女、ひでこ)、?-?年)
  17. 於振【水野忠胤室】(七女、おふり、?-1643年)
  18. 源光院【万里小路充房継室】(八女、げんこういん)、?-1600年)
  19. 三の丸殿【豊臣秀吉側室】(九女、さんのまるどの、?-1603年)
  20. 鶴姫【中川秀政室】(十女、つるひめ)、?-?年)
  21. 月明院【徳大寺実久室】(十一女、げつみょういん、?-1608年)
  22. 慈眼院(十二女、じげんいん、?-1641年)

信長の妻子の事跡

さて、それでは次に妻子たちの事跡をそれぞれみていこう。

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濃姫(正室、のうひめ)

織田信秀と斎藤道三による政略結婚により、信長の許嫁となった。
信長に嫁いだ後に関しては史料がほとんどないため、その生涯は謎めいている。また、通説では信長との間に子はいないものの、娘がいたという文献があるため、定かではない。

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生駒吉乃(側室、いこま きつの)

織田家の家臣・生駒家宗(いこま いえむね)の長女。長男・信忠が信長の後継者となった。

  信忠(長男、のぶただ)
一説に濃姫が織田信忠を養子としたという。甲斐武田家を滅ぼした甲州征伐(1582年)では織田軍の総大将を務めたが、わずか数カ月後に本能寺の変(1582年)で自害した。

  信雄(二男、のぶかつ)
信長の伊勢攻略で北畠具房の養子に送りだされた。信長死後、織田家の覇権を握った秀吉に対抗するため、家康を頼って小牧・長久手の戦い(1584年)を引き起こしたが降伏した。江戸幕府下では大坂の陣の直前で徳川方に与し、晩年はのんびりと過ごした。

  徳姫(長女、とくひめ)
松平信康室。


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慈徳院(側室、じとくいん)

信忠の乳母を務めたのが縁で信長の側室となった。

  三の丸殿(九女、さんのまるどの)
豊臣秀吉の側室。秀吉死後に公家の二条昭実の継室。


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坂氏(側室)

信孝の母で、名は不明。信長の死後、信孝が柴田勝家と結び、秀吉に岐阜城へ攻め込まれた際に降伏して、秀吉の人質となった。その後、賤ヶ岳の戦い(1583年)で信孝が再挙兵したため、孫娘と共に処刑された。

  信孝(三男、のぶたか)
信長の死後、秀吉と対立する柴田勝家に味方し、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、最期は自害させられた。


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養観院(側室、ようかんいん)

羽柴秀勝の母。

  秀勝(四男、ひでかつ)
秀吉が子の羽柴石松丸秀勝を亡くしたため、羽柴秀吉の養嗣子となる。信長死後は秀吉に与し、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦い(1584年)に従軍したが、その後まもなくして病没した。

  相応院(二女、そうおういん)
蒲生氏郷の正室。


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お鍋の方(側室)

信長死後は秀吉の庇護下に置かれ、秀吉の正室・ねねの側近筆頭として仕えたという。

  信高(七男、のぶたか)
信長死後、氏家行広に養育を受ける。関ヶ原の戦い(1600年)では東軍と西軍のどちらに属したかは史料が一定せず、定かではない。江戸幕府が成立した1603年(慶長7年)に死去。

  信吉(八男、のぶよし)
関ヶ原の戦いでは三成率いる西軍につき、戦後に改易となった。

  於振(七女、おふり)
水野忠胤正室、のちに佐治一成継室。


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土方氏(側室)

信長との間に九男・信貞をもうけた。土方雄久の娘と伝わる。

  信貞(九男、のぶさだ)
豊臣政権下で秀吉の馬廻となり、関ヶ原の戦いでは三成方に与して戦後は改易となった。その後は家康から赦免されて、大坂の陣(1614-15年)では徳川方として従軍している。



上記の他、以下は生母不明の子供たちである。

  勝長(五男、かつなが)
実名は織田源三郎信房。本能寺の変で信忠の側にいて、明智軍と奮戦して討ち死にした。

  信秀(六男、のぶひで)
祖父と同じ名前。信長死後に秀吉に仕え、羽柴姓・豊臣姓を賜った。九州征伐(1587年)への従軍や文禄の役(1592-93年)での肥前名護屋城への駐屯などの記録が残る。時期は定かではないが、関ヶ原合戦の前後には病死した。

  信好(十男、のぶよし)
秀吉に仕え、茶人となった。

  長次(十一男、ながつぐ)
豊臣秀吉の馬廻衆となった。のちに関ヶ原の戦いの本戦で戦死した。

  永姫(三女、えいひめ)
前田利長室。

  報恩院(四女、ほうおんいん)
丹羽長重室。

  秀子(六女、ひでこ)
筒井定次の正室。実父は明智光秀という説もある。

  源光院(八女、げんこういん)
万里小路充房の継室。

  鶴姫(十女、つるひめ)
中川秀政の正室。

  月明院(十一女、げつみょういん)
公家の徳大寺実久の正室。

  慈眼院(十二女、じげんいん)
織田・北条両家での縁組で北条氏直の婚約者になったとされる。しかし、本能寺で信長が横死したため、縁組は消滅したとみられている。


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