丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「塙直政」信長家臣ではマイナーだが、実は同僚内で出世頭だった!?

信長家臣団の中でも、塙直政という武将はあまり有名ではないだろう。だが、残された数少ない彼の事績を追っていくと、直政が羽柴秀吉や明智光秀らにも劣らない、織田政権の有力武将だったことが分かる。そんな直政の生涯を見てみよう。

秀吉や光秀らと肩を並べた存在

織田信長を支えた武将と言えば、のちに天下人になる豊臣秀吉や、宿将と呼ばれた柴田勝家佐久間信盛、それに明智光秀滝川一益といった面々がよく知られているだろう。彼らは信長の勢力圏で一国単位の支配を任され、のちに方面軍司令官として織田政権の重鎮となったメンバーたちだ。

実は直政も、そんな彼らと同じ道を歩むはずだった武将なのである。一時期は秀吉や勝家らと肩を並べるほどに信長に重用されたものの、戦国乱世の途中で倒れたため、その知名度は秀吉らに比べてはるかに低い。しかし、直政が織田政権の重臣の一人だったのは、紛れもない事実であった。

尾張時代の直政

直政に関する史料は少なく、その多くは謎に包まれている。彼の生誕年や父母は不明だが、出身は尾張国春日井郡比良村とされ、大野木村あたりを支配していたようだ。なお、苗字の塙は「ばん」と読むと思われる。「はなわ」とする史料もあり、のちに賜った九州の名族「原田」の姓で記す場合もある。

信長に仕えた時期は定かでないが、尾張出身で信長の赤母衣(ほろ)衆にも選ばれているので、初期からの家臣だったとみられる。赤母衣衆とは親衛隊のような存在で、前田利家佐々成政らもその一員だった。直政は信長の馬廻を務めていたことから、側近くに仕えるエリート士官候補生の一人だったと見ていいだろう。ただし、永禄11年(1568年)の信長上洛以前の事績はまったく伝わっていない。上洛後は行政文書にその名が多く現れてくるので、合戦働き以上に事務的能力に優れていたのかも知れない。

織田政権の誕生後に大出世

元亀の争乱が終わり、織田政権が畿内の支配を固め始めた頃から、直政の最前線での活躍が顕著になる。数度に渡る石山本願寺攻めと伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の高屋城の戦いや越前一向一揆討伐などで度々武勲を立てた。

これらの戦いと前後して、天正2年(1574年)に南山城の守護、翌年に大和の守護を任されるという大出世を果たしている。この時期の織田政権で直政と同じ勢力を持っていたのは、勝家ら宿将クラスだけである。もし直政が本能寺の変まで存命だったなら、信長の後継者争いに大きな影響力を持った可能性もあっただろう。

直政の死と一族の没落

天正3年(1575年)長篠の戦いでは、成政や利家らかつての赤母衣衆の仲間と共に鉄砲奉行を務めた。この時点では、のちに加賀百万石の礎を築く利家より出世で先んじていたと言える。しかし翌天正4年(1576年)の5月、天王寺砦の戦いで直政は討死してしまう。石山本願寺の包囲戦の一幕で、伏兵の待ち伏せにあったと伝わる。直政のほかに一族の多くが討たれたため、塙家は後継者無く断絶、直政の事績の多くが後世に伝わらない一因となった。

直政の他、信長家臣団には荒木村重や佐久間信盛らのように、一時期政権内で有力な地位を占めながらも、本能寺の変を待たずして没落していった武将が少なくない。その理由は「信長の怒りを買った、謀反を起こした」など様々あるが、直政は親衛隊あがりなだけに、信長の信頼は厚かったと見られている。

本能寺の変まで直政が生きていたら歴史はどうなっていたのか…。こうした関心を持つ歴史愛好家は結構多いかもしれない。


 PAGE TOP