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「堂洞合戦」織田軍、加治田衆とともに堂洞城の岸一族を撃破!
──永禄8年(1565年)

合戦の背景

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで駿河の大大名・今川義元を討ち取り、まもなくして尾張国の統一も果たした織田信長。次に美濃国を手中に収めるべく、美濃の領主・斎藤龍興と戦いながらも犬山城を落とすなど順調に勢力を広げていた。

やがて美濃にいた豪族たちにも動きがあり、信長に寝返るものや他の豪族と力を合わせて対応するものなど様々な者たちが現れる。犬山城の近くにある堂洞城では、佐藤忠能、岸信周、長井道利が「中濃三城盟約」を結び、後者の道を選ぶことになった。だが、佐藤忠能は使者を信長のいる犬山城に遣わし、丹羽長秀と内応するなど盟約はあれど、その内容は一枚岩というわけではない。

一方、信長の方も美濃攻略の手を緩めることなく鵜沼城・猿啄城を攻略するなどしている。当然、堂洞城の攻略にも着手するのだが、険しい地形と中濃三城盟約があったためいきなり戦を始めるということはなく、まずは金森長近を使者としてつかわして、投降を勧めている。だが岸信周は投降を拒否し、さらに岸信周の嫡男・信房は城の中にいた自身の息子の首を斬り落すというパフォーマンスを金森長近に見せつけて反対の意思表明をした。このため、長近は投降させることは不可能と判断し、そのまま犬山城に引き返すことになった。
ただし、戦う意志があったのは岸信周だけであり、丹羽長秀と内応していた佐藤忠能は正式に信長に寝返っている。

合戦の経過

佐藤忠能が正式に寝返ったこともあり、信長は永禄8年(1565年)の8月28日、堂洞城を攻略するための戦を開始。これが「堂洞合戦(どうほらがっせん)」である。

織田軍は、堂洞城を西と南に丹羽長秀、河尻秀隆森可成を遣わし、北側には佐藤忠能を派遣して複数の方向から攻撃をした。これに対して堂洞城側では南と西は岸信周、北側は岸信房がそれぞれ防衛を担当して迎撃している。このときに信長は関城にいた長井利道の援軍を防ぐ目的で堂洞城と関城の間にある高畑山日本人を敷いていた。

西はやや苦戦していたが、北から侵攻していた佐藤忠能は地形をよく知っていたこともあり、比較的順調に攻略をおこなっていた。岸信房も必死に防衛していたのだが、すべてを防ぎ切ることはできず、部下を多数討ち死にされたことや自身も複数箇所に渡って負傷したこともあり、その場で自害をしている。

南側では、織田方で屈指の弓の名手である太田牛一が数多くの敵を射抜いた一方で、岸勢もそれに負けじと10度以上にわたる攻撃をしかけ、数多くの兵士たちが負傷しながらも一足も退かないという激戦区となっていた。またここには岸信周の妻がおり、彼女自身も長刀を振り回して戦っていたという記録がのこっている。しかし、織田方のほうが兵士の数が多かったこともあり、西や南、北から攻城されて同日の夕方には堂洞城が陥落して戦は終了した。

戦後

この合戦に勝利した信長は、堂洞城のある中美濃を手中に収めることができ、勢力をさらに拡大することができた。戦が終わった後は功労者である佐藤忠能の屋敷に立ち寄り一泊しており、堂洞城では宿泊していない。また、翌29日に討ち取った敵方の首が大将級の首であるかどうかを検討する首実検をおこなっている。

最後まで信長の本陣に阻まれていた長井利道は、堂洞合戦が終わったあとに斎藤龍興と一緒に攻撃を仕掛けていった。不意をつかれた信長は、一旦ひろ野まで撤退し体制を整えてから反撃をするように見せかけ、さっさと鵜沼まで避難して難を逃れている。
長井利道と斎藤龍興はそのまま加治田城を攻める気配を見せていたので、信長は斎藤利治を援軍として派遣して両者に対抗した。このときの戦いは「関・加治田合戦」と呼ばれている。

なお、堂洞合戦で最後まで抵抗した岸信周、岸信房親子は戦死することになったが、生き残った岸川の一族は信長に反抗の意志を示さなかったこともあり、岸一族自体は滅ぼされることはなく、子孫は現在も生存している。また、堂洞城はその後、本能寺の変の直後に勃発した加治田・兼山合戦において、斎藤利堯と森長可が加治田城を攻略する際の本陣として使用している。それ以外は基本的に使用されることなく、廃城として放置されることになった。


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