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六角義賢(六角承禎)-近江守護・六角氏の当主-

六角義賢(ろっかく よしかた、1521-1598年)は南近江の守護大名・戦国大名。近江国蒲生郡の観音寺城城主。六角承禎とも。

経歴

1521年(大永元年)に六角定頼の嫡男として誕生した。

1539年(天文8年)に能登国の富山義総の娘を正室に迎えると、同年10月には従五位下、左京大夫に叙位、任官している。

1549年(天文18年)の細川晴元政権の最期となった江口の戦いでは、細川晴元・三好政長連合軍の援軍として向かっているが、結局、三好政長が討ち取られて翌年に三好長慶による三好政権が誕生している。

六角家は甲賀郡を含む近江国の守護であり、さらに伊賀国4郡のうち3郡(阿加(あか)郡、山田郡、阿拝(あはい)郡)の間接統治も行っていた。ただし、北近江は京極氏の勢力圏となっていた(半国守護)。
また、定頼は1549年(天文18年12月)観音寺城下町の繁栄を図るための政策として、自由取引市場をつくり座を解散させる「楽市令」を初めて認めることで、商人を城下に集め、観音寺を一大商業都市にまで成長させた。

家督相続、そして三好政権下での動き

1552年(天文21年)に父・定頼の死去に伴い家督を相続し、六角家の第13代当主となった。

三好氏から政権奪取を図る将軍・足利義輝や細川晴元を支援したが、三好長慶を破ることはできなかった。

ただ、1558年(永禄元年)に再び将軍義輝と三好長慶が交戦した際に両者の和睦を仲介し、義輝を5年ぶりに入洛させて御所での直接的な幕府政治を開始させることに貢献した。

1559年(永禄2年)には既に臣下に置いていた北近江の浅井氏との従属関係を強調するため、浅井久政の嫡男・猿夜叉丸(のちの浅井長政)に義賢から偏諱を与えて新九郎賢政と名乗らせ、六角家臣・平井定武の娘を娶らせている。ただし、まもなく新九郎賢政が六角氏との絶縁を決め、平井定武の娘は送り返されている。

同年には嫡男の義弼(のちの六角義治)に家督を譲り、箕作城へ隠居。その後出家・剃髪して "承禎(しょうてい)"と号したが、隠居後も実権はなお握り続けた。

1560年(永禄3年)、浅井長政が六角氏に対して反抗を開始。義賢はこれを討伐するために大軍を自ら率いるも、長政が率いる浅井軍の前に大敗を喫し、独立を許してしまった(野良田の戦い)。

この敗戦でそれまで敵視していたという斎藤義龍とも同盟関係を結び、今まで以上に浅井氏との戦を繰り広げていくものの、戦況は芳しくなかった。

斎藤義龍との同盟は家督を譲られた長男の義治が主導したものとみられている。義賢は姉妹らが美濃国の守護大名・土岐頼芸に嫁いでいることから、美濃を下剋上で奪った斎藤氏には否定的であったため、斎藤氏との同盟を反対する旨の書状が見つかっている。

一度は上洛に成功するも・・・

1561年(永禄4年)、三好長慶が細川晴元を幽閉したことに激怒した義賢は、細川晴元の二男で義賢の甥にもあたる細川晴之を助け、畠山高政と共に三好氏勢力下の京都に向けて侵攻を開始した。

紀伊国に逃れていた畠山高政や根来寺宗徒と共同戦線を張って両面作戦を展開し、三好義興・松永久秀らを破り、さらに翌1562年(永禄5年)には畠山高政が長慶の弟・三好実休を敗死させている(久米田の戦い)。
そして、義賢は洛中に進軍して山城国を掌握。

しかし、その後の教興寺の戦いで畠山軍が壊滅すると、義賢は山城国から撤退して三好長慶と和睦した。

観音寺騒動

1563年(永禄6年)、最も有力とされ、人望があった重臣の後藤賢豊を長男・義治が観音寺城内で謀殺する事件が起きた(観音寺騒動)。

これを受けた六角氏の家臣らが不信感を爆発させ、一時は義賢・義治父子は観音寺城から追われたが、重臣の蒲生定秀・賢秀親子の仲介によって観音寺城に戻ることができたという。

将軍・足利義輝の暗殺

1565年(永禄8年)には第13代将軍・足利義輝が三好氏によって暗殺されるという一大事件が勃発した。

このとき義輝の弟・覚慶(のちの足利義昭)が奈良を脱出して六角氏を頼って近江国甲賀郡の和田城へ避難してきている。

当初、義賢は覚慶の上洛に協力する姿勢を見せて野洲郡矢島に迎え入れたり、織田信長・浅井長政の同盟の斡旋をしたりしたが、 三好三人衆の説得に応じる形で覚慶や織田信長らと敵対する方針に転じたため、覚慶は越前の朝倉義景の元へ逃れたという。

これを受けて翌1566年(永禄9年)には浅井長政に攻め込まれている。

また、1567年(永禄10年)には領国の支配体制の再建を目的として67カ条からなる分国法「六角氏式目」を制定している。

織田信長と徹底交戦の構えを貫く

1568年(永禄11年)、足利義昭を奉じて上洛のために京へ進軍を開始する織田信長は上洛支援の要請をしてきたが、義賢はこれを拒否して三好三人衆と通じ、織田軍と戦うもわずか1日で観音寺城、箕作城の両城を落とされ、大敗を喫した。

義賢は夜陰に紛れて甲賀山中へと逃亡し、甲賀郡に本拠を移すはめとなった。

信長はこの後に上洛を果たし、15代将軍・足利義昭を誕生させて事実上の織田政権を樹立した。

1570年(元亀元年)、金ヶ崎の戦いで朝倉義景を攻めたてた織田軍は浅井長政の離反にあって敗退。信長は体制を立て直すために近江国でそれぞれ宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家を配置した。

こうした中、義賢は甲賀郡から南近江に北進して柴田勝家や佐久間信盛と野洲河原で激突したが、敗戦して石部城へ落ち延びた。(野洲河原の戦い)。

同年の野田城・福島城の戦いでは浅井・朝倉連合や三好三人衆、石山本願寺らと結託して南近江の地で織田軍を圧迫。
続く ”志賀の陣”では信長が比叡山に籠もった浅井・朝倉連合と長期にわたって対峙していたが、このとき義賢は足利義昭を通じて信長と和睦している。

1572年(元亀3年)には本願寺(金森の一向宗徒)と連携して信長と抗戦している。
これに対して信長は付近の寺院をことごとく放火し、近在の村々に今後は六角氏に味方しない起請文を提出させている(元亀の起請文)

1573年(元亀4年)、義賢は湖東に進出して鯰江貞景の鯰江城(現在の滋賀県東近江市)に入ったものの、百済寺に陣を構えた織田軍によって鯰江城を囲まれた。

しかし、六角氏が鯰江城を百済寺の近くに築いていたことから、信長は百済寺が六角勢を支援したとして寺を焼き払い、攻略を諦めて岐阜に帰還したといい、義賢は難を逃れている。

しかし、同年には義賢と連携していた朝倉義景、浅井長政が次々と信長に討たれ、信長の命を受けた柴田勝家に長男・六角義治の鯰江城が攻め落とされると、翌1574年(天正2年)には義賢の籠もる菩提寺城と石部城も落城させられ、義賢は夜間に雨に紛れて甲賀郡南部の信楽に逃れた。

一方、畿内では大和の松永久秀が信長に服属。同年11月には摂津の伊丹親興が織田方の荒木村重に城を落とされて自害すると、山城や摂津に居た三好三人衆も霧散、これにより畿内はほぼ信長に制圧されてしまった。

その後の義賢については、甲賀と伊賀の国人を糾合して信長に抗戦した、石山本願寺の扶助を受けていた、隠棲していたなど、諸説入り乱れているが、定かではない。

晩年は?

1581年(天正9年)にはキリシタンの洗礼を受けたとされており、信長死後には天下統一を果たした豊臣秀吉の御伽衆となっている。

秀吉が死去した1598年(慶長3年)に病死した。享年78歳で法名は梅心院弥天藤阿。


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