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斎藤義龍 -疎まれ、兄弟も父も殺害した道三の嫡男-

斎藤義龍(さいとう よしたつ、1527-1561年)は美濃国の戦国大名で道三流斎藤氏の第2代当主(美濃一色氏初代とする説もある)。室町幕府相伴衆。

経歴

1527年(大永7年6月10日)、初代当主・斎藤利政(道三)の嫡男として誕生。母は側室の深芳野。幼名は豊太丸。

父・道三との不和

1554年(天文23年)、父・道三が隠居し、家督を継いで稲葉山城城主となる。道三が隠居したのは自発的なものではなく、家臣の信頼を得られずに領国の経営が円滑に進まなかったための交代劇とも見られている。また、このとき既に義龍と道三親子の仲は良くなく、『信長公記』には「仲が悪かったにも拘らず、なぜか家族揃って稲葉城に住んでいる」と残されている。

家督の相続を行った後、道三は長男の義龍を「耄者(おいぼれ)」と言い放ち、逆に「利口者」として義龍の弟で次男の孫四郎、三男の喜平次らを溺愛するようになったという(『信長公記』)。
さらには義龍を排除し、道三の正室・小見の方(おみのかた)が産んだ弟の孫四郎を嫡子にしようとしたり、末弟の喜平次には名門一色家として「一色右兵衛大輔」と名乗らせた(『信長公記』)ことから、義龍と道三親子の関係は最悪な状況となっていった。

1555年(弘治元年11月12日)、義龍は斎藤家3代に仕えた重臣で叔父とされる長井道利と共謀し、 弟の孫四郎、喜平次らを自身のいる稲葉山城の奥の間に病を装っておびき出し、酒に酔わせた後に美濃国本田城城主の日根野弘就(ひねの ひろなり)に弟達を殺害させた。

これに驚いた父・道三は大桑城に逃げ、1556年(弘治2年)に義龍は道三と長良川にて対戦する。 道三を支持する勢力は少なく、織田信長が尾張国から道三の救援に向かっていたが間に合わなかったため、義龍は旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち取った(長良川の戦い)

道三死後

美濃国は父・道三が下剋上で手に入れたこともあり、反対勢力も多く存在し、道三は独断専行型の強引な統治をしていた。 義龍は戦争に明け暮れていた道三の下では十分に実現でき得なかった守護領国制の名残を排除し、荒れた美濃国を復興するため、貫高制に基づいた安堵状を発給して所領問題の解決を図った。さらに重臣の意見を取り入れる合議制を導入して家臣団の不満を解消する等、一気に戦国大名としての基礎を築き上げていった。

その後、父 道三の末子である斎藤利治が尾張の織田家に亡命。利治は信長より偏諱を与えられて”長龍”と改名して美濃斎藤家の当主を名乗るようになる。一方で義龍は将軍・足利義輝より一色氏を称することを許され、”一色左京大夫”と名乗るようになった。これは道三の実子ではないという噂を逆手に取り、父殺しの汚名を避ける大義名分を得て一色を名乗ることで、美濃国人1万7千5百を自らの指揮下に結集させる事に成功したという『美濃国諸旧記』。

1558年(永禄元年)に治部大輔に任官、さらに1559年(永禄2年)には足利幕府相伴衆にも任命された。
同年には織田信長がわずかな供を連れて上洛する際、義龍は火縄銃装備の手勢を配備し、狙撃して信長を暗殺しようとしたが、失敗に終わった。ただ、この一件は記録に残る日本初の火縄銃による狙撃となった。

1560年(永禄元年)には北近江の浅井と対立している南近江の六角義賢と同盟を締結している。

1561年(永禄4年)、左京大夫(左京兆)に任命されるも、永禄同年5月11日に急死した。享年35歳。
義龍の死後、子の斎藤龍興が家督を継いだ。


義龍の父親について

義龍の父親は斎藤道三であるのが通説である。南近江の六角義賢が家臣に宛てた書状『六角承禎条書』の中で「義龍の父親は道三である」と示しているからである。
しかし一方で父は土岐頼芸という説もある。義龍の母・深芳野は元々は美濃国の守護大名・土岐頼芸の愛妾であったため、父の道三が深芳野を土岐頼芸から下贈された際、深芳野はすでに頼芸の子を妊娠していたといい、その子が義龍であるという説である。これは江戸時代に編纂された家系譜から考えられた説である。

菩提寺

現在の岐阜県岐阜市にある常在寺(じょうざいじ)は斎藤家の菩提寺であり、斎藤道三と京都から美濃へやって来た商人出身といわれる道三の父 長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)が二代にわたり美濃国を制する拠点とした寺である。 正式名は、鷲林山常在寺(じゅりんざんじょうざいじ)といい、日蓮宗京都妙覚寺の末寺。
室町時代の1450年(宝徳2年)に美濃国守護代斎藤宗円(そうえん)の子で、土岐家守護代としての権力を持ち、当時、事実上美濃を支配していた斎藤妙椿(みょうちん)が妙覚寺(みょうかくじ)から世尊院日範(せそんいんにちはん)を招き建立した。
この寺は後に義龍の菩提寺ともなっていて、国の重要文化財に指定されている絹本著色作 斎藤道三像、斎藤義龍像(肖像画)が所蔵されている。

略年表

  • 1527年(大永7年)、誕生
  • 1554年(天文23年)、稲葉山城主となる
  • 1555年(弘治元年)、弟2人を殺害
  • 1556年(弘治2年)、長良川の戦いで父・道三を討ち取る
  • 1558年(永禄元年)、治部大輔に任官
  • 1559年(永禄2年)、足利幕府相伴衆に任命される
  • 1560年(永禄3年)、六角義賢と同盟を結ぶ
  • 1561年(永禄4年)、左京大夫(左京兆)に任命。その後に死去。享年35。


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