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「お江(崇源院)」三代将軍家光の生母は嫉妬深かった?

お江の肖像画
浅井三姉妹の一人として知られ、大河ドラマでも主役として取り上げられたのある "江(ごう)"。三姉妹それぞれが戦国時代の終わりという時代の中で波乱に満ちた生涯を送ったのだが、彼女の場合はどのような生涯を送ったのであろうか。

不幸続きだった少女時代

江は天正元年(1573年)8月に近江国の浅井城に誕生した。父は近江国の大名だった浅井長政、母は織田信長の妹・お市の方である。なお、"崇源院" は死後に贈られた名前であり、生前は "お江" や "お江与" などと呼ばれていた。

この当時、父長政は信長と敵対しており、江が産まれてすぐの9月26日に小谷城が落城して自害。江は母と姉2人とともに信長に保護されることになる。信長が本能寺の変で横死するまでは、お市の方の大叔父である織田信次の元で育ったと思われる。

天正10年(1582年)本能寺の変の後、お市の方は信長の重臣である柴田勝家と再婚して、江たちも勝家の本拠地である福井に移った。しかし、翌天正11年(1583年)、義父の勝家が織田家の覇権をかけた賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れて自害、母・お市の方もこれに殉じて命を絶つことに。2度の落城と両親の死を目の当たりにした江たち浅井三姉妹は、敵方であった秀吉に保護されたのであった。

結婚しても幸せを築けない

江はこの頃に佐治一成という武将と結婚している。一成は織田信雄の配下の武将であり、この結婚は信長の生前に織田家と佐治家の関係を修復するためにあらかじめ決められていた。最もこの時期には秀吉による信雄の懐柔の意味も含まれていたのだが、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは信雄が徳川家康を頼って秀吉と敵対、一成も信雄に加担したことから秀吉の怒りを買って追放されてしまう。このとき、江は一成と離縁させられ、次に秀吉の甥である羽柴秀勝の元に嫁ぐことになった。

その秀勝は秀吉の天下統一事業に戦功を挙げていき、天正19年(1591年)には美濃国に封じられるなど活躍している。江は彼との間に一女を儲けるなど夫婦関係も良好であったが、秀勝は文禄元年(1592年)に朝鮮出兵で朝鮮へ出陣した最中、病を得て同年9月に死亡してしまった。1度目は無理やり離縁させられ、2度目は夫に先立たれるなど、江の結婚生活は3回目を迎えるまで幸せを築くことができなかったのである。

徳川家への嫁入り

普通であれば江は落飾し、夫である秀勝を弔う後生を送っていくはずだった。しかし、一族のいない秀吉にとって、江は政略結婚の有力な道具の一つである。

文禄4年(1595年)、今度は関東の実力者である家康の三男・徳川秀忠と再婚することが決まった。秀忠との間には慶長2年(1597年)に長女の千姫が産まれたのをはじめ、その後も徳川家光、忠長など2男5女を儲けている。

秀吉死後には、豊臣家内の武断派と文治派の対立によって関ヶ原の戦いが勃発。武断派の盟主となった家康がこの戦いに勝利し、のちの慶長5年(1603年)に江戸幕府が創設され、秀吉の遺言どおりに7歳の千姫が豊臣秀頼と結婚。その2年後には将軍職が秀忠に譲られ、江は将軍家御台所となったのである。

姉との別れ、そして晩年

家康が幕府を開いた後も豊臣家はある程度の影響力を残しており、幕府と豊臣家は微妙な関係であった。特に秀頼の母・淀殿は家康と事あるごとに対立しており、江も姉と舅の板挟みになって苦しい思いをしていたのではないかと考えらられる。しかし、両者の対立は頂点を迎え、慶長19年(1614年)にはついに大阪冬の陣が勃発。この時は一旦和議が結ばれたものの、翌慶長20年(1615年)には和議が破られて再戦となり、同6月に豊臣家は滅亡、姉の淀殿も自害して果てた。

江は家康死後の元和2年(1616年)5月7日、浅井氏の菩提寺として建立された養源院において、姉の淀殿と甥の秀頼の菩提を弔っている。一方で元和6年(1620年)には娘の和子が後水尾天皇に入内し、息子の家光が三代将軍に就任するなど、子供たちの一人立ちを見守っている。寛永3年(1626年)9月25日に江戸城西の丸にて死去、享年54であった。徳川家将軍正室の中で将軍の生母となったのは彼女だけである。

非常に嫉妬深い人間

江といえば、何かとマイナスのイメージで語られる事が多い。

具体的な例を挙げると保科正之の誕生の逸話に由来する。彼は秀忠が浮気してできた子供であるのだが、秀忠は江を憚って長い間正之と面会することができなかったという。この憚った理由というのが江の勘気に触れることを恐れていたからというもので、結局秀忠が正之と初めて面会したのが崇源院の死後であった。

また、長男の家光が病弱で吃音持ち、容姿も優れていなかったことから、容姿端麗で才気煥発だった忠長を溺愛したことで、家光の自殺未遂を引き起こしたうえに将軍の跡目争い問題を引き起こしたという。しかし、その俗説を証明する具体的証拠は一次資料どころか傍証すら存在せず、どちらかというと秀忠の方が忠長を溺愛していたことが史料中に書かれている。これは江と敵対関係にあった春日局が意図的に流したデマであるとみられ、実際の彼女は家族の不幸に心を痛めている日々を過ごしていたのであろう。


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