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「朝倉宗滴」当主三代にわたり、朝倉家中の重鎮として君臨。

朝倉宗滴は越前朝倉家の政務や軍事の他に外交も担ったことから、事実上の朝倉家の当主と目されている男である。彼は朝倉当主の9代貞景・10代孝景(宗淳)・11代義景の三代に仕えて朝倉の全盛期をも築き上げるなど、まさに朝倉家の屋台骨であった。

誕生、そして父の死

朝倉宗滴は本名を朝倉教景という。教景は1度出家しており、宗滴とはその際の法名である。 越前の守護大名であった朝倉孝景の八男として、文明9年(1477年)に誕生した。

八男ではあったものの、当初は朝倉宗家の嫡男として処遇されていたようだ。というのも、父・孝景の仮名であった「小太郎」を幼名として使用していたことや、朝倉家の歴代当主がそうであったように、「景」の字を諱の下に置いていることなどから推察できる。
ところが宗滴が4歳になった文明13年(1481年)に、父・孝景が死去してしまう。本来の世継ぎとして予定されていたのは宗滴であったはずだが、あまりにも幼い年齢だったことで危ぶまれ、結局は長男の氏景が当主として収まった。 しかしここから宗滴は事実上の実力者として、内政から軍務まで朝倉家をリードしていくことになる。

最初の出世

文亀3年(1503年)4月、敦賀郡司であった朝倉景豊が朝倉宗家への謀反の企てに失敗して自害した。実はこの結果に至るまでの過程で、宗滴の存在が一際クローズアップされることになる。

当時、京で中央政権を牛耳っていた管領細川政元は、朝倉宗家とは対立関係にあった。この政元に使えていたのが景豊の義父・朝倉景総である。政元の意を汲んだ景総は、景豊に謀反をそそのかすと、景豊は自分の妻の兄にあたる宗滴に謀反を持ちかけた。
計画では景総が京から軍勢を差し向ける間に、越前国でも景豊をはじめとした朝倉一門が蜂起する段取りであった。ところが朝倉一門は誰もこの企てに乗らなかった。その中心にいたのが宗滴なのである。

宗滴は景豊の謀反の企てを知るや否や、直ぐに朝倉家9代当主の貞景へ密告。そして景豊のいる敦賀城を貞景と共に数千騎の軍勢で包囲し、結果的に自害へと追い込んだのであった。この功績が認められた宗滴は、金ヶ崎城を与えられると同時に敦賀郡司として就任し、その後は朝倉家の軍政を一任されることになる。

一向一揆と対決

敦賀郡司に就任した宗滴であったが、当時の越前をはじめとした北陸一帯は、一向宗による度重なる内乱に苦しめられていた。 この一向宗は京の本願寺の門徒勢力であるが、実はここでも先述した管領の細川政元が黒幕として糸を引いていたのだ。
政元は本願寺とは親密な関係にあり、一向宗が北陸で勢力を拡大していることに着目。特に政元にとって目障りな存在であった朝倉家に対してはその力を少しでも削ぎ落とそうと躍起であった。

政元から強い要請を受けた本願寺は、いよいよ北陸への侵攻を本格化させる。永正3年(1506年)には、加賀をはじめ越中や能登の一向宗門徒とも合流した越前一向宗は、宗滴を総大将とする朝倉軍と九頭竜川で開戦。これがいわゆる「九頭竜川の戦い」である。結果は宗滴率いる朝倉軍の快勝であった。数の上でこそ一向宗は優勢であったものの、百戦錬磨の玄人軍勢には敵わなかったのである。

華々しい数々の戦果

朝倉家の有能な軍略家であり、また実質的な当主でもあった宗滴は、その後も目覚ましい活躍を見せる。

永正14年(1517年)には、室町幕府からの要請で、若狭・丹後に援軍を派遣。若狭の逸見氏と丹後の延永氏らによる反乱軍を鎮圧して、その地を司っていた守護大名・武田氏を救った。さらに大永5年(1525年)になると、美濃国への進出を企てる六角定頼に協力し、浅井亮政の居城であった小谷城を包囲した。しかし結局は直接戦火を交えることはなく、宗滴の仲介によって両者の調停が成立した。この時に恩を感じた浅井側は、その後も朝倉家とは良好な関係を築いていくことになる。

それから2年後の大永7年(1527年)には、弱体化しつつあった足利将軍家の要請により、京へ約1万の軍勢で向かう。当時、暫定的に京を占領していた柳本・三好連合軍を駆逐し、さらに足利義維と細川晴元を擁する三好主力軍も撃退した。
これがいわゆる「川勝寺口の戦い」である。ただし宗滴は、足利将軍家の実力者で管領の細川高国と対立したことで、越前へ急遽帰国してしまう。このため、足利将軍家および細川高国は京都に拠点を築けずに近江へ脱出する結果となった。いずれにしても宗滴に依存しなければ、足利将軍家は京で勢力を維持できなかったのである。

晩年とその後の朝倉家

北陸では一向宗による大小の内乱が、相変わらず頻発していた。天文24年(1555年)7月に加賀の一向一揆が勃発すると、越後の長尾景虎と連携して、宗滴は討伐軍を加賀へ派兵した。しかしこれが、宗滴の最後の出陣となってしまう。

1日で3つもの城を落とす大活躍を見せたものの、陣中で病に倒れてからは、一族の景隆に総大将を譲って戦線を離脱。同9月、必死の看病にも関わらず一乗谷で逝去した。享年79。

若くして朝倉家11代当主となった朝倉義景はまだ技量に欠け、補佐役の宗滴が消えてからは一門で内紛が頻発することになる。また、一向一揆対策に成果があがらないことに加え、周辺の敵対国からの圧力も増大し、目に見えて朝倉家の消耗と衰退が始まった。そして最終的には天正元年(1573年)の一乗谷の戦いにおいて、織田信長の軍勢に破れ、朝倉家は終焉を迎えた。

なお、宗滴は臨終の直前に、信長の行く末を見たいからあと3年生き長らえたかった旨を言い残している。彼は生前に信長の才能を見抜いていたのである。いかに朝倉家にとって宗滴の存在が大きいものであったのか、彼亡き後の朝倉氏の凋落ぶりから一目瞭然であろう。


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