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【第3回】平安・鎌倉・南北朝期 -直虎前史-

平安~鎌倉期の井伊氏

井伊氏の作った伝記を除く史料では、保元の乱 を描いた軍記物語『保元物語』の中で井伊氏がはじめて登場する。

"保元の乱" とは、平安時代末期の保元元年(1156年)7月、朝廷が後白河天皇と崇徳上皇の勢力に分かれて衝突した政変であるが、この中で源義朝や平清盛らが率いる後白河天皇方の兵に、横地氏・勝間田氏とともに井伊氏とみられる 「井八郎」という人物の名がでてくる。
"井伊" という苗字は古い文献では、"井"という1文字で登場しているようであり、言いづらいのもあって2文字の"井伊"になったとみられている。

井伊氏は西遠江、横地氏は遠江国中央部、勝間田氏は遠江国東部の土着勢力であり、この時期の井伊氏は、すでに武士として扱われていたようである。ちなみに系図によっては、この三家に密接なつながりがあるよう示されている。

次に鎌倉時代での井伊氏をみていく。

まずは、鎌倉幕府が編纂した正史『吾妻鏡』(あずまかがみけんきゅう)に井伊氏がたびたび登場しているのでそれを以下に記す。

  • 建久2年(1191年)4月晦日条
    「井伊六郎直綱」の名が見える。この井伊氏一族とみられる直綱は、近江国佐々木荘(滋賀県近江八幡市)と比叡山延暦寺との騒動に関わり、のちに禁獄されたようである。ただ、この名は井伊氏の系図類には出てきていないようである。

  • 建久6年(1195年)3月10日条
    「伊井介」の名が見える。井伊氏は伊井氏と書かれることもあり、これも井伊氏とみられている。
  • 寛元3年(1245年)1月9日
    鎌倉幕府御弓始めの儀式に、「三番 井伊介 小河左衛門尉」と名が見える。

このほか、『吾妻鏡』以外の史料でも、建治元年(1275年)の京都六条八幡宮造営注文 (「田中穣氏旧蔵典籍古文書所収六条八幡宮文書」『静岡県史資料編補遺』)に井伊介が御家人役として三貫文を負担しており、この井伊介も井伊氏とみられている。

南北朝期の井伊氏

正慶2年・元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が開始された。しかし、武士による政治を改め、天皇・朝廷権威を復活させようとした政権運営は武士勢力をはじめとして政権批判を招いた。
そうした中で足利尊氏が離反すると、建武3年・延元元年(1336年)には光明天皇を擁立した尊氏が政権の軍勢を破って京へ入り、後醍醐天皇は吉野へ逃れることとなった。

こうして朝廷は2人の天皇が同時に存在する状態となり、南北朝時代の到来となる。

浜松市北区三ヶ日町の大福寺に残る史料『瑠璃山年録残篇裏書』によれば、この後の同年9月、"美差太郎なる武士が井伊氏本城の三岳城を攻撃し、中条氏という者を討ち取った" と伝わる。
井伊氏は後醍醐天皇の皇子宗良親王を三岳城(同浜松市北区引佐町)に迎え、南朝方として活躍することになる。

ところで井伊氏が南朝に味方したのはなぜであろうか?

歴史研究家・小和田氏の見解では井伊氏の勢力範囲には南朝の大覚寺統の荘園や御厨(みくりや、"神の台所"の意で、神饌を調進する場所のこと)が集中していたからと指摘している。

居城を落とされる井伊氏

建武4年・延元2年(1337年)7月には、北朝方の今川範国の軍勢と井伊氏が戦っている(三方原の戦い)

のちに井伊氏の主筋となる、足利将軍家の血が流れるエリート一族・今川氏。この今川範国こそがその初代当主であり、室町幕府の成立に貢献したとして、この時期には遠江国の守護職に就いていた。


井伊氏の居城・三岳城と周辺支城マップ

井伊氏は本拠の三岳城を中心に、北に天山城、西に千頭ヶ峯城や奥山城、東に大平城・南に鴨江城などの支城を築いて防備を固め、北朝方を迎撃しようとしていた。

  • 1.三岳城
  • 2.井伊谷城
  • 3.天山城
  • 4.奥山城
  • 5.千頭峯城
  • 6.大平城
  • 7.鴨江城

戦いがあったのは7月4日であり、井伊軍は居城の三岳城を出陣し、三方原で今川軍と戦いになり、井伊一族の者の首が取られたという。7月6日には本拠・三岳城が今川範国の攻撃を受けたが、今川方を撃退させている。

後醍醐天皇は、数人の皇子たちを各地の南朝方勢力へ送り込み、三岳城の井伊氏の元へは宗良親王を送った。宗良親王に与した井伊氏は道政とされているが、系図にあらわれない創作上の人物であり、直公である可能性が高いという。

暦応元年(1338年)、南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の子息)が三岳城に入って、井伊氏の助力を要請したという(『太平記』)。

暦応2年(1339年)7、8月の戦いでは、高師泰・泰兼の攻撃を受け、支城の鴨江城が落とされた。さらにその直後、8月16日には吉野朝で後醍醐天皇が崩御してしまう。 同年10月には三岳城の西方を守る千頭ヶ峯城、さらに同じ頃に井伊氏の庶流である上野直助の居城、上野砦も落ちた。

そして、翌年(1340年)1月、ついに井伊氏の三岳城も落とされた。このときに井伊氏がどうなったのかはわからないが、ここからしばらくの間史料から姿を消す。。
宗良親王は詰め城の大平城へ待避して籠城するが、同年8月には北朝方の仁木義長の夜襲を受けてこの大平城も落城した。このため 、宗良親王は敗走して最終的に信濃国で最終的な拠点とし、約30年間北朝に抵抗した。

南朝勢力は楠木正成(1336年没)や新田義貞(1338年没)、北畠顕家(1338年没)、後醍醐天皇(1339年没)などの相次ぐ死もあったため、この後は急速に衰退していく。

正平6年(1351年)には、北朝の内部分裂もあって、一時的(わずか4カ月)に南北朝が統一されている。

正平9年・文和3年(1354年)には北朝の後光厳天皇は遠江国の二俣や井伊谷の国衙領を熊野速玉神社の造営料所として寄進している。これは北朝方に井伊谷の土地を既に奪われている事のようにも考えられるが、実際どうなのかはよくわからない。

今川に従い、九州へ出兵する井伊氏

ここで再び井伊氏がまた歴史の表舞台に登場する。

応安3年・建徳元年(1370年)、それまで幕府内での役職は引付頭人であった今川貞世(=今川了俊)が室町幕府の執事だった細川頼之の推薦で九州探題になると、了俊は兵力を持っていなかったため、遠江および駿河在住の武士たちに九州への従軍を募った。

『今川家譜』によると、九州に従軍した氏族に横地・勝間田・奥山・井伊・笹瀬・早田・河井とあるため、どうやら井伊氏は今川氏の配下に収まったようであり、応安4年・建徳2年(1371年)に了俊が懐良親王討伐のために九州へ下向した際に従軍したようである。

ちなみに井伊氏は誰が従軍したのかは不明であり、奥山氏は "奥山直朝" であった。

その奥山直朝だが、乱戦となった天授元年・永和元年(1375年)3月3日の背振山の戦いで討死し、このとき井伊氏や笠原氏等にも多くの犠牲者が出たとみられている。
また、至徳元年・元中元年(1384年)5月には、直朝の子・奥山朝藤が、後醍醐天皇の皇子で宗良親主の弟にあたる無文元選(むもんげんせん)を招き、寺地を寄進して方広寺を建立している。

井伊氏空白の六代?

ところでこの時代の井伊家当主について、彦根系図における第十二代の道政、十三代の高顕、十四代の時直、十五代の顕直、十六代の諄直、十七代の成直が削られている井伊氏の系図がいくつかある。

この空白について龍潭寺の武藤全裕は『遠州井伊氏物語』の中で、徳川幕府に対し、はばかったのではないかとの見解を示している。 征夷大将軍となった徳川氏は出自を源氏と名乗っており、井伊氏は、将軍かつ源氏の頭領である足利尊氏と敵対した。

一方で歴史研究家の小和田氏は彦根系図のほうへ後に付け加えられたのではないかとみている。徳川幕府の頃にはばかられていた代が、南朝を正統とした明治時代に入ってから新たに出現した、というわけである。

このほか、この六代の間は井伊氏は「断絶」していた、という説もあるようである。

これまでみてきたように、平安・鎌倉・南北朝期における井伊氏の記録は、井伊一族とみられる人物がちらほら散見されてはいるが、各個人の素性はほとんどわからないような記録しかない。

どうやら中世における井伊氏の史料は、近世のそれと比べて極めて少ないようだ。


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