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【第4回】南北朝統一後から応仁の乱まで -直虎前史-

薩摩国の島津氏を下して九州全土を平定した今川了俊であったが、応永2年(1395年)に九州探題の職を罷免され、弟の仲秋とともに失脚している。この失脚劇は、大友親世や大内義弘らの讒言によるもの、3代将軍義満が了俊の力を危険視していたこと・・・等々、いくつかの説がある。

応永6年(1399年)には大内義弘が将軍足利義満と対立して挙兵(応永の乱)、大内義弘が討ち死にして乱は平定されたが、翌応永7年(1400年)に了俊は乱への関与を疑われて幕府によって討伐されかけた。このとき、甥で3代目当主・今川泰範が了俊から駿河と遠江国の守護職を奪い取ったが、一方で了俊の助命嘆願をしたといい、了俊は死罪を免れている。

遠江守護職を失う今川氏

その後、今川氏は一時的に斯波氏に遠江の守護職を奪われるもすぐに奪回、しかし、応永26年(1419年)以降は遠江国の守護職を完全に斯波氏に奪われる形となってしまった。

斯波氏は今川氏と同じく足利一門であり、三管領の筆頭として強大な力を持つ一族であった。元々の越前国の守護職に加え、応永の乱(1400年)の功で得た尾張国、さらに遠江国を与えられて3か国の守護となった。

ただ、その後の遠江国にも今川氏側の残存勢力(遠江今川氏、堀越今川氏)があり、のちに両者は激突することになる。

くじ引き将軍

中央では応永35年(1428年)3月にくじ引きで6代将軍・足利義教が誕生した。この頃の井伊氏については、史料が少なくよくわかっていない

永享10年(1438年)永享の乱で幕府軍の中に「井伊弥太郎」として井伊氏の名前が見える。さらに横地氏の系図によると、井伊弥太郎はこの戦い、もしくは、のちの結城合戦(1440年)で討ち死にしたという。ちなみにこの"井伊弥太郎"が誰なのかはわかっていない。

※永享の乱は足利義教が鎌倉公方の足利持氏を討伐した戦い。

将軍義教は恐怖政治を行なって「万人恐怖」と恐れられていたが、嘉吉元年(1441年)6月24日、これに危機感を強めた赤松満祐によって暗殺されている(嘉吉の乱)。

渋川井伊氏

ここで少し、直虎連載の【第2回】の記事で登場した井伊氏の庶流・渋川井伊氏をみてみよう。

この庶流の人物名が正安2年(1300年)から文明7年(1475年)の間にちらほらと見えており、渋川(静岡県浜松市北区引佐町)周辺に残る棟札などからわかる。

渋川井伊氏の上野直貞は渋川六所大明神(1362年)や川名福満寺薬師堂(1426年)を、またその子の上野直秀は渋川六所宝殿(1409年)を造立寄進しているようである。
また、長禄3年(1459年)まで「井伊殿」が遠江国引佐郡の都田御厨の地頭だったことを物語る史料があるが、これが宗家の井伊谷井伊氏か、庶流の渋川井伊氏のどちらを示すのかはわかっていない。

この渋川井伊氏の動向は詳しくわからないが、南北朝期の前後に一定の勢力を持っていたとみられている。

今川氏 vs 斯波氏

長禄3年(1459年)には遠江今川氏の第5代当主・今川範将が「中遠一揆」を引き起こした。 範将は遠江国の今川勢力を回復させようとして、反斯波派の遠江国衆らを誘って斯波氏と戦い、井伊氏も反斯波勢力の中にいたとされている。

斯波氏は遠江支配にあたり、地元の遠江国衆らではなく、遠江国守護代の甲斐氏や越前の堀江氏など、斯波氏の譜代の被官を登用していた。こうしたことが井伊氏をはじめとした遠江国衆らが今川氏に与した一因になったと考えられている。

この戦いは長期化したが、その最中の寛正5年(1464年 *異説あり)に範将が敗死すると、遠江国の今川氏の残存勢力は堀越氏だけとなるが、のちにその堀越(現・袋井市堀越)の所領も斯波氏に奪われてしまった。

応仁の乱

こうした中、全国規模の内乱で戦国時代のはじまりとされる応仁の乱(1467年)が勃発した。

応仁の乱勃発の背景は複雑だが、主に以下の三点に集約できる。

  • 将軍継嗣問題:8代将軍・足利義政と日野富子との間に子(=足利義尚)が誕生し、それ以前に将軍職が決まっていた義政の弟の足利義視との間で問題が発生。
  • 管領家の家督争い:同じ頃に管領の畠山氏や斯波氏で家督争いがあった。
  • 有力守護大名の山名宗全と細川勝元の対立:細川勝元が養子としていた山名豊久(=宗全の子)を廃嫡したことで関係悪化。

今川氏6代目当主の今川義忠はこの戦いで兵を率いて上洛し、東軍・細川勝元に与した。このとき義忠は京都に200日ほど滞在したところで、勝元から「京都の合戦は有利にすすんでいるので、分国に下向して斯波義廉の遠江を攻めるように」と命ぜられたという(『今川紀』)

義忠の遠江侵攻は、翌文明6年(1474年)から行なわれている。

応仁の乱の発生後、遠江国の守護は西軍の斯波義廉から東軍の斯波義寛に代わっていたが、義忠は将軍から与えられた兵糧用の所領を巡り、同じ東軍にもかかわらずに斯波義寛を攻撃、また、遠江の国衆・遠江見付(=静岡県磐田市見付)を本拠とする狩野氏らを攻めている。
こうした今川軍の動きにより、文明7年(1475年)からは今川氏と斯波氏の二大勢力の間で本格的な戦いがはじまった。

義忠は遠江国東部へ出陣して斯波義寛に与していた遠江国衆の横地氏や勝間田氏らと戦っているが、井伊氏がどうしていたかはわからない。

そして翌文明8年(1476年)になると、意外な形で今川の敗戦となった。
今川軍は横地城の横地四郎兵衛、勝間田城の勝間田修理亮を打ち破り、横地氏と勝間田氏を滅ぼしたが、その凱旋途中の塩買坂(=静岡県菊川市)で横地・勝間田の残党に襲われ、当主の義忠がまさかの死となった。

こうして今川氏は遠江侵攻が頓挫・・・、さらには家督を巡ってお家騒動を迎えることになる。


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