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【第5回】戦国今川氏の誕生 -直虎前史-(1476-1536年)

今川氏の家督争いと北条早雲

今川家では当主の義忠が討死したことで家督問題が発生する。

井伊氏は、特にこの今川の家督争いに関係はしないが、のちに遠江国を支配して井伊の主君となる今川の歴史の重要ポイントなので、大まかに記述しようと思う。

義忠が死んだとき、嫡子の龍王丸(たつおうまる)はまだ6歳だったため、当主代行として今川一族の小鹿範満が推されていた。

しかし、1479年(文明11年)に8代将軍・足利義政から龍王丸の相続を認める書面がだされたため、小鹿範満を支持する堀越公方の重臣・上杉政憲や、扇谷上杉氏の家宰・大田道灌らが介入してきて今川家は二分する事態となった。
これに幕府側は龍王丸の叔父で幕府申次衆を務めていた伊勢宗瑞を駿河へ派遣し、調停にあたらせた。その結果、龍王丸が元服するまでという条件で小鹿範満が代行することで一旦は決着が着いた。

しかし、龍王丸が元服しても小鹿範満は家督を譲ろうとはしなかったため、長享元年(1487年)に龍王丸の母・北川殿が京で幕府に仕えていた弟の伊勢宗瑞に連絡をとって救いを求めると、宗瑞はまもなく駿河へ下向して駿府今川館を襲撃し、範満を殺害して龍王丸に家督を取り戻したのである。

この龍王丸が"今川氏親"と名乗って今川当主となり、この氏親の代から今川氏が戦国大名と位置付けられるのである。

伊勢宗瑞は氏親の叔父にあたり、以後は氏親と連携して軍事行動を起こしていく。

氏親の要請で駿河東部の興国寺城(=沼津市)に入り、東の守りを固めると、明応2年(1493年)には将軍の命で宗瑞自ら伊豆の堀越公方を滅ぼして、伊豆一国を手に入れている。

この伊勢宗瑞が後北条氏の初代当主であり、戦国大名のパイオニアとして名高い"北条早雲"であり、のちに相模国も手に入れて伊豆・相模の2カ国の大名となる。
氏親も同時に早雲の力を借りながら遠江国を攻略していき、今川氏を戦国大名へと脱皮させるのであるが、その功績は早雲によるところが非常に大きい。

7代目今川氏親の駿河・遠江支配

氏親はかつて今川氏が守護であった遠江国の奪還に向けて早雲とともに動き出す。

明応3年(1494年)に早雲率いる今川軍は遠江に侵攻、このときのねらいは中遠の国衆・原氏の討伐することにあり、早雲はその地域の民家で味方しない者を容赦なく焼き払っている。

このときに遠江守護の斯波氏が動いた形跡はないが、今川軍がさらに西遠に侵攻した文亀元年(1501年)からは斯波氏も抵抗しはじめており、斯波義寛は信濃国の小笠原氏にも援軍要請をしているようである。

井伊氏の本拠は西遠であるが、このときの井伊氏は史料に名が残されていないため、少なくとも合戦の矢面には立っていなかったとみられている。

今川氏はこの後、三河の国衆の奥平貞昌を味方につける等しており、永正3-5年(1506-08年)にかけては三河国へ侵攻している。
そして永正5年(1508年)に氏親は念願の遠江の守護職と修理大夫に任ぜられている。同年には早雲が三河の岩津城(岡崎市)の戦いで松平軍に敗北したが、この後は早雲の今川家臣としての出陣はみられなくなり、以後は独立した戦国大名の立場となっている。

氏親 vs 斯波義達

永正7年(1510年)12月28日、斯波義達が失地回復のため、井伊氏と大河内氏を味方につけて西遠で今川氏と激しい戦いをはじめた。
このときの大河内氏は大河内貞綱であり、井伊氏は"井伊直平"とみられている。

斯波義達は井伊氏に迎え入れられて三岳城、井伊谷城近くの寺を陣所にしていたが、今川の軍勢は斯波氏の陣所への放火作戦を展開していたようであり、旧東牧村(=浜松市北区)の花平にあった月光山宝光庵に火がつけられ、翌永正8年(1511年)1月5日には花平の陣所も火をかけられたという(『駿河伊達文書』『戦國遺文』今川氏編第一巻』)。

同年2月20日には今川方が忍を送りこみ、三岳城の井伊次郎の陣所も放火されている。
斯波氏の主力は三岳城の井伊氏と引馬城の大河内氏であったが、この頃、氏親は斯波の軍勢を分断するために刑部城と堀川城を築いて、そこに兵を投入している。

永正9年(1512年)閏4月まで続き、同4月23日には斯波・井伊軍らは麦を薙ぎ、苗をふみ荒らしていった(=刈り働きという戦法)という。

こうした今川と斯波の一連の戦いは翌永正10年(1513年)年3月7日に今川軍の総攻撃により、三岳城が落とされたことで決着がつき、斯波義達は尾張へ敗走したという。

このとき、居城を落とされた井伊氏が完全に降伏し、今川方に帰順したかどうかはわからない。
一説にこのとき戦った井伊氏は渋川井伊氏であり、渋川井伊氏のとある一族はこのとき信濃国から甲斐国へ逃れ、後に渋川井伊氏の祖の上野氏を称して武田氏に仕えることになった、とも言う。

いずれにしても井伊氏は今川氏に敗れて居城を奪われ、その三岳城には今川家臣の奥平貞昌が城番として入っている。

しかし、斯波氏の抵抗はまだ続き、永正13年(1516年)の冬に大河内貞綱が再び挙兵して引馬城を占領すると、貞綱から出馬要請を受けた斯波義達も遠江に出陣してきた。
これに対し、今川軍は翌永正14年(1517年)に引馬城を攻めて陥落させた。

貞綱は自害し、義達は出家させられて尾張へ送り返されている。ここに氏親は念願の遠江平定を果たしたのであった。

遠江平定後の今川氏親時代における井伊氏関連史料はないようである。
井伊一族は氏親の家臣となってしまったのか?今川の支配下に入った遠江の井伊領は他の誰かに支配されたのか?

・・・・残念ながら謎である。

今川義元の登場

駿河・遠江の2か国を手にした氏親が大永6年(1526年)に亡くなると、嫡子の氏輝が当主となったが、若年であることを理由に後見人となった母・寿桂尼(じゅけいに)が今川家の実権を握った。

寿桂尼は今川家の領国支配に力を注ぐなど、当主としての役割を果たしたため、"女戦国大名"の異名をもっている。また、氏輝も成人してからは父と同様に検地を実施するなどしている。

この時期も井伊氏に関する動向はつかめず天文4年(1535年)4月には井伊氏の居城・三岳城の城番を務めていた今川家臣の奥平貞昌が死没したが、その後に城が井伊氏に返還されたかどうかも不明である。

氏輝の当主時代は長く続かず、わずか24歳で突然死してしまったため、今川家で再び家督争いが勃発することになる。

天文5年(1536年)、氏輝の死後、氏輝に子がいなかったため、同母弟の梅岳承芳と異母弟の玄広恵探が対立、家督を巡って戦うことになった。
梅岳承芳がこれに勝利し、晴れて今川家当主となった(花蔵の乱)が、この承芳こそが今川義元である。

このときの井伊家当主は第12代井伊直平であるが、この家督争いに関わった史料は残されていない

次回はいよいよ直虎が登場する。


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