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【第7回】小野政直の讒言と南渓和尚の手引き(1544-45年)

ところで直虎は幼少期に亀之丞と婚約していたというが、どのような経緯でそうなったのであろうか。

『寛政重修諸家譜』によれば、直虎の父で井伊家当主の直盛は若かったが、男子に恵まれなかったため、直満の子息である亀之丞を養子に迎え、後継者問題を解決しようとしたといい、直虎と亀之丞を結婚させようとしたようである。

一方の『井伊家伝記』も大体同じような内容が記されているが、 婚約したとは書かれておらず、あくまでも直虎と亀之丞を結婚させる考えがあった、ということである。

ちなみにいつ頃婚約したのかは史料に記されていない。

家老・小野政直による讒言

しかし、この後継者問題がきっかけで井伊一族、直虎にとって大きな悲劇が引き起こされる。

天文13年(1544年)12月、養子縁組が順調に進む中、家老の小野和泉守政直が今川義元に讒言をし、井伊直満・直義兄弟が義元に呼びだされて殺害されてしまうという事件が起こった。

『寛政重修諸家譜』や『井伊家伝記』によると、小野政直は亀之丞の養子縁組をよく思っておらず、さらに井伊直満と不和であったようである。そうした中で井伊直満・直義兄弟が不穏な動きをしたため、これを察知した政直が2人に謀反の意があるとし、駿府へ赴いて義元に讒言したという。そして、直満は必死に義元に弁解したものの、政直が次々と讒言を繰り出したためについに直満・直義兄弟2人は殺害されてしまったという。

直満の謀反の意とは?

井伊氏が今川家臣となったのが本意でないことは、両氏の過去のいきさつからも明らかであり、こうした背景から直満は謀反の動きをみせて他国と通じたと思われる。しかし、他国というのが三河国の松平氏・甲斐国の武田氏・関東の北条氏、と一定しせず、識者の見解は一致していないようである。

政直の狙いとは?

政直が亀之丞の養子縁組を嫌った真実は謎だが、ある小説やNHK大河などでは自分の息子・道好を直虎の婿にして井伊家を奪いとる狙いがあったように描かれている。また、ただ単に別の後継者候補を擁立していたという見方もある。

結局のところ、政直は亀之丞が井伊家を継ぐことをよく思わず、不和であった直満を讒言によって陥れたことは確かなようだが、具体的なところはよくわかっておらず、様々な憶測や解釈があるようだ。

この事件の結果、このとき10歳の亀之丞の養子縁組はなくなり、直虎の婚約も破談となったのであった。

連歌師宗牧一行の訪問

ところでこの直満・直義兄弟が殺害される事件のわずか数日前に、連歌師宗牧一行が井伊谷を訪ねていたようである。

宗牧は越前国一乗谷(福井市)出身といわれ、宗碩のもとで連歌を学び、飯尾宗祇、猪苗代兼載を範とし、宗長からも教えを受けており、宗碩没後は連歌界の指導者的な役割を果たした一流の連歌師である。

直満・直義兄弟の殺害事件との関連はわからないが、宗牧はなぜかこのとき「井伊次郎殿(=直満)」の館ではなく、小野政直の館に泊まっているのである。

亀之丞、南渓和尚に導かれて出奔

父を殺害された亀之丞であったが、悲しみに暮れる猶予すらなかった。謀反人の子として命を狙われることになったのである。

諸史料によると、殺害事件のあとに小野政直が駿河から帰国すると、「亀之丞を殺せ」との今川義元の命令を伝えてきたため、直満の家老だった今村藤七郎が亀之丞をかますに入れて匿い、それを背負って黒田(浜松市北区)に逃れた。
しかし、政直がすぐさま亀之丞を探し回ったため、近くで匿うことは困難だと判断し、同年12月29日にやむなく渋川郷の東光院(浜松市北区)へと逃げ込み、龍潭寺の南渓和尚と相談して信濃国の松源寺(長野県下伊那郡高森町)で匿うことにしたという。
松源寺は南渓和尚の師だった黙宗和尚ゆかりの寺だったからである。

東光院の住職だった能仲和尚の案内で、翌天文14年(1545年)1月3日の夜、信州に向かったといい、亀之丞は松源寺で生活することになったという(『井伊家伝記』『寛政重修諸家譜』ほか)。

亀之丞らの潜伏生活の実態は明らかでないが、最終的に約10年にも及ぶことになる。

南渓和尚と今村藤七郎正實

ここで亀之丞の逃亡に大きな役割を果たした南渓和尚と今村藤七郎正實についてみていこう。

まずは南渓和尚について。

彼は直平の子(養子説あり)で亀之丞にとっては叔父にあたり、井伊の菩提寺・龍潭寺の第二世住職に就いて井伊一族の重鎮的な存在であった。彼の師に龍潭寺の開山・黙宗瑞淵がおり、さらにその黙宗の師が松源寺の開山・文叔であった。

一方で東光院の住職・能仲和尚は南渓和尚の弟子であった。

このようにみると、亀之丞の逃亡先は実はすべて南渓和尚の縁を頼ったものであったのである。亀之丞を逃して長い歳月を追手から匿ったことについて、いかに南渓和尚の存在が大きかったかがよくわかる。

次に亀之丞逃亡に同行した直満の家臣・今村藤七郎正實について。

彼の本来の姓は "勝間田" であったが、この逃亡劇のためにわざわざ "今村"と変えたようである。勝間田氏といえば過去に今川氏に滅ぼされたが、かつては東遠江の有力国衆であった。

逃亡途中、坂田峠(浜松市北区)に差し掛かったところで、今川家臣の右近次郎という人物から矢を射かけられたという話もあり、追手がせまっていた様子がうかがえる。


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