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【第8回】直虎、出家して"次郎法師"と称す(1545-49年)

直虎の出家

亀之丞という許婚を失ってしまった直虎はその後、どうしたのであろうか?

諸史料によれば、いつまでも亀之丞が戻らなかったため、直虎は菩提の心が深くなり、数年後には南渓和尚の弟子となって髪を剃り、出家して尼になり、"次郎法師"と号したという。

次郎法師という名の所以

出家のとき、直虎の両親は嘆き、「一度は亀之丞と夫婦になるところが実現しなかっただけだ」と尼の名(法名)を付けさせないように南渓和尚に頼んだという。これに対して直虎は「出家したのだから、尼の名を付けたい」と言って意見が分かれ、親子の間で言い争いになった。

尼の名を付けるということは、俗世を捨て去るということである。
おそらく直虎の両親は、直虎が結婚できなくなることで、婿養子として井伊家の後継者を迎えることができなくなることを嫌ったのであろう。

こうした中で、南渓和尚が考え出したのが "次郎法師" という名であった。

本来、井伊家惣領は「備中法師」と名乗った。"法師"とは僧侶姿の男子につける呼称であり、"次郎"とは井伊家代々当主仮名(通称)である。

まさに"次郎法師"という名は僧侶と俗人の両方を兼ねた名であり、井伊家を継ぐ者という含みを持たせた南渓和尚の名案であったのである。

詳細不明の出家

ところで直虎出家に関わる様々な疑問がでてくるかと思うが、残念ながら以下のような具体的なことは史料から一切見えてこない。

  • どういういきさつで、何故出家をしたのか?
  • いつ出家をしたのか?
  • 亀之丞の消息について直虎は知らされていたのか?

今川と周辺各国の動静

さて、井伊家の動向からは少し離れるが、このころの遠江周辺各国の情勢をみてみよう。

亀之丞が出奔した年である天文14年(1545年)今川義元は武蔵国へ侵攻する北条氏康と争っていた上杉憲政と同盟を締結し、北条氏を挟撃して追い詰めた。
その結果、武田信玄の仲介で河東地域を今川氏に割譲する条件で和睦し、長期にわたる河東の乱がようやく終結した。

そして、西方の三河国侵攻がねらいであった義元は、後顧の憂いを絶ったことで東三河へ侵攻を開始。天文15年(1546年)11月には今橋城の戸田宣成を滅亡に追い込んでいる。

幼少期の徳川家康、人質となる

このころ三河国の松平氏は若年の松平広忠が当主であったが、先代・松平清康が家臣に謀殺されて以来、家中の混乱から一族は内紛状態となっており、今川義元の庇護のもとで西三河で辛うじて勢力を維持していた。
しかもその西三河では急速に勢力を伸ばす尾張国の織田信秀がかねてから侵攻を繰り返しており、広忠の居城・岡崎城もたびたび脅かされていたのであった。

ちなみに広忠は家康の父であり、信秀は信長の父である。

こうした中、信秀に対抗する力のなかった広忠は翌天文16年(1547年)8月に義元へ援軍を依頼する見返りとして子の竹千代(=のちの家康)を人質として駿府に送り出したが、その護送途中で田原城主の戸田康光の裏切りにより、竹千代は織田方に引き渡されてしまった。

なお、これに怒った義元はその翌月にさっそく田原城を攻め滅ぼしている。このときの家康はわずか6歳であった。

織田勢力を三河から一掃しようと本気になった義元は天文17年(1548年)太原雪斎を大将として出陣させ、小豆坂合戦で大勝利を収めている。

天文18年(1549年)には松平広忠が死去。これにすぐさま義元は領主不在の岡崎城(現在の愛知県岡崎市)へ雪斎らを向かわせて城を接収し、松平遺臣たちが織田方に属するのを防いだ。
今川方は続けて織田信長の庶兄にあたる織田信広の安祥城(安城市)を攻めて信広を生け捕りにし、人質交換によって竹千代はようやく、当初予定だった今川義元のもとへ送られた。

このように今川・松平氏 vs 織田氏の三河国をめぐる戦いは、今川方が三河国を支配することで決着がつき、織田勢力を三河から駆逐。井伊家で直虎が出家し、亀之丞が出奔している間の遠江周辺各国の情勢は大きく変化していったのである。

なお、亀之丞が出奔して信濃に潜伏している間、何をしていたのかは史料にないようである。井伊氏に動きがあるのは亀之丞が井伊谷に戻ってくる弘治元年(1555年)以降のこととなる。


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