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【第13回】おんな城主の誕生と徳政令の凍結(1565-68年)

直親と直平、そして重臣の新野左馬介と中野直由の相次ぐ死によって、ついに井伊家ではだれも家中をコントロールするものがいなくなってしまった。

「おんな城主・直虎」の誕生

この緊急事態に南渓和尚と直盛の後室が相談し、次郎法師(直虎)を地頭に定めたという。ここでいう地頭とは、井伊家の家督を継ぐ者=井伊家当主ということである。

ここにようやく、おんな城主「直虎」が誕生する。

ただし、直虎が当主とはいっても本来の後継者である虎松(のちの井伊直政)は匿われていて井伊谷に不在という状況にあるだけのため、あくまでも虎松が帰還するまでの ”つなぎ役” ということである。

ちなみにこのとき、今川氏真や小野政次がこれに反対したという形跡は残っていない。また、これがいつのことであるかもはっきりしていない。

最初の事績

直虎のおんな城主として事蹟があらわれるのは永禄8年(1565年)9月15日である。

この日、直虎が龍潭寺の南渓和尚に宛てた寄進状がみられる(「龍潭寺文書」)。

寄進状とは、社寺などに金品や領地を寄進する際の品目や趣旨などを記した文書のことであり、この直虎の寄進状は全部で八条から成っている。直虎の黒印も押された貴重な史料であり、内容の一部は以下のような事である。

  • 龍潭寺の田畠と山境に関する取り決め事。
  • 担保物件取戻しのための返済金に関する定め。
  • 歴代井伊家が寄進した屋敷等につき、これまでどおり相違ないことを認めたもの。
  • 祠堂銭(しどうせん)に関する事項 etc...

このほか、龍潭寺が菩提所であることから諸役を免除し、また、金融業を行っていたことから徳政令を適用除外としている。

氏真に忍びよる危機

このころ、今川家では西の徳川家康とは敵対したものの、いまだ武田信玄と北条氏康とは三国同盟が継続しており、北と東に関しては盤石なはずであった。

しかし、それを揺るがす出来事が起こる。

同年、武田家では織田信長の働きかけにより、信玄の子・武田勝頼に信長の養女を娶らせたのである。一説に信長は信玄に対し、今川との同盟を破棄して侵攻するよう勧めたともいう。今川氏真の妹を娶っていた嫡男の武田義信は親今川派である。

この一件がきっかけで信玄と義信は不和になり、同年10月には謀反を計画した義信派の飯富虎昌らが処刑され、義信自身も幽閉されてしまった。さらには氏真の妹・嶺松院が強制的に離縁させられると、2年後の永禄10年(1567年)には義信が自害(一説に病死)したのち、嶺松院は駿府に送り返されてしまった。

こうして義元の代より30年も続いていた武田と今川の同盟関係は破綻を迎えたのである。

直虎と徳政令

さて、氏真は武田との関係が悪化する一方で、国内では徳政令を発令しているが、これに直虎が大きく関わっている。

徳政令とはなにか?

朝廷・幕府・守護大名・戦国大名・在地領主などが債権者や金融業者に対し、債権の放棄(=すなわち債務の免除)を命じた法令のことである。

鎌倉時代には御家人(=鎌倉幕府に仕える武士)が貧困に苦しんで所領売却など行なっていた際、これを保護する名目でたびたび発令された。中でも永仁5年(1297年)の永仁の徳政令は有名で、御家人らが売却・質入れした所領は無償で取り戻すことができた。
室町時代に入ると、農民たちが貧窮した際に幕府や守護大名に対して徳政令を発布するよう要求し、頻繁に一揆を起こしたが、これを徳政一揆である。

戦国大名や在地領主においては政策的に徳政令を発令したようである。

直虎による徳政令の凍結

さて、話を元に戻して直虎が徳政令に関わった事蹟をみてみよう。

永禄9年(1566年)に氏真が井伊谷領の祝田に徳政令を発布したが、これは直虎が即座に徳政を執り行わなかったことで2年間もの間、実施されていなかったようである。
このため本百姓らは訴えて、氏真が再度徳政令を出したという。

このことが「蜂前神社文書」の2つの書状でみてとれる。

まず1つ目は永禄11年(1568年)8月4日付の関口氏経から直虎に宛てた書状の内容である。

  • 2年前(すなわち永禄9年)の徳政令発布のとき、銭主方(債権者)が嫌がって実行されず、それは大変な不正行為であった。
  • このうえは銭主方(債権者)がいかに訴訟を起こしても、決して許してはならない。

井伊谷領の徳政令が実施されていないことを、氏経が直虎に対して訴えている様子がうかがえる。

2つ目は同年11月9日付の井伊直虎・関口氏経の連署状であり、以下はおおむねの内容である。

  • 祝田郷の徳政については、2年前(永禄9年)に氏真の発給文書で申し付けた。
  • 銭主方がこれを嫌がり、未だに決着していない。
  • 本百姓が訴訟を起こしたため、2年前の氏真の発給文書に基づき、再度申し付けるところだ。
  • 先の例に従って名職等を受け取り、銭主方が重ねて訴訟を起こしても許すところではない。

銭主方(債権者)側の一方的な都合で徳政令が凍結されており、これに本百姓が訴訟を起こしたことで、再度徳政令が出された様子がうかがえる。

ちなみにこの井伊領を巡る徳政令について以下のような見解があるので紹介しておく。

  • 直虎は「銭主方(債権者、銭の貸し手)」に加担していた。
  • 徳政令の拒否派(直虎・銭主方)と 徳政令の要求派(小野政次・祝田禰宜ら)が対立する構図であった。
  • 井伊氏自身も借り手であり、銭主方に貸し渋られると、井伊氏の領地経営が立ちゆかなくなる恐れがあった。
  • 氏真の徳政令を認めると、井伊氏は国衆としての今川から知行権を放棄したとみなされる恐れがあった。
  • 今川氏は国衆から知行権をとりあげ、直轄地にする目的もあった。
  • 徳政令凍結に関わったのが実は直虎ではなく、井伊一族の井伊主水佑だった。

このようにして井伊谷領の徳政令は結局、実行に移されたのであった。

小野政次による井伊谷横領

一方でこのころ、既に武田信玄は今川領への侵攻を計画し、徳川家康と通じて「駿河国=武田、遠江国=徳川」という構図でそれぞれを攻め取るという密約を交わしていた。

これを取り持ったのも織田信長であり、信長は足利義昭を奉じて上洛するため、信玄の目を今川方に向けたと考えられているようである。
このように、井伊谷への徳政令を再度発令したときの今川氏はもはや末期状態であった。

その後まもなく、氏真は小野政次に対して以下を命じたという(『井伊家伝記』)。

  • 信玄との防戦のために井伊谷の軍勢を率いて出陣すること。
  • 井伊虎松(直政)を殺害すること。

そして政次は氏真の命令に従って井伊谷でその旨を伝え、そのまま井伊谷城を横領したという。

これは氏真の意向によって井伊谷領の支配が直虎から小野政次に移されたということであろう。『井伊家伝記』によると、直虎と直盛の後室(祐椿尼公)は龍潭寺の中にある松岳院という小さな庵に引っ越したという。
また、遠江国内で匿われていた虎松に再び危機が及んだが、このとき浄土寺の僧とともに三河国の鳳来寺に逃れたと伝わる。(『寛政重修諸家譜』『井伊家伝記』)

この一連の出来事は同年11月以降のことであるが、詳しい時期はわからない。


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