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【第14回】今川崩壊と小野政次の最期(1568-69年)

駿河・遠江侵攻の開始

前回の記事に書いたように、永禄11年(1568年)の11月頃、直虎らは今川氏真の命を受けた小野政次によって、井伊谷を横領され、本領を失うハメとなった。
しかし、その氏真・小野政次もまもなくして憂き目にあうことになる。

信玄による駿府占領

同年12月8日、徳川と今川領割譲の密約を結んでいた武田信玄がついに駿河への侵攻を開始すると、氏真はあっという間に駿府まで制圧されてしまうこととなった。
駿府陥落は13日だから、わずか8日の出来事である。

この間、氏真もなにもしなかったわけではなく、一旦は軍勢を派遣して武田軍を迎撃したのであるが、かねてからの内通者が武田方に離反する者が多く、成すすべがなかったのである。

駿府城が制圧されたとき、氏真は家臣・朝比奈泰朝の遠江掛川城へ逃れており、氏真の正室・北条氏は興にも乗れずに裸足で脱出する程だったというから、いかに急を要する制圧劇だったかが伺える。

この信玄の行動を許さなかった北条氏政は、今川救援のために小田原を出陣しており、信玄は駿府占領後にまもなく北条軍に退路を断たれ、駿府に留まって窮地を迎えることになるのである。

こうして今川義元の代以来続いてきた 「今川=武田=北条」の三氏による三国同盟は破綻となった。

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家康による井伊谷占領

一方、遠江侵攻を企図していた徳川家康もまた、駿府占領となった13日に出陣し、中宇利の小幡まで旗を進めると、井伊谷三人衆の道案内で15日には井伊谷まで到着し、陣所としている。(『武徳編年集成』『浜松御在城記』)

小野政次に奪われた直虎の本領・井伊谷であったが、今度はこのようにあっさりと家康が奪うのである。

『井伊家伝記』によれば、家康は井伊谷が小野政次が奪取して、直虎らが退いたことを聞き及び、井伊谷三人衆を派遣して井伊谷を乗っ取ることにしたという。

ところで、この井伊谷三人衆とは何者なのであろうか?

『改正三河後風土記』によると、どうやら家康は井伊谷への案内役を家臣・菅沼定盈と今泉延伝に命じたようだが、菅沼定盈が井伊谷攻略には井伊谷三人衆がうってつけだとして家康に彼らを薦めたようである。

井伊谷三人衆とは、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時の三人を指す。

  • 菅沼忠久は菅沼定盈と同族であり、忠久の父・元景は井伊直親に仕えていたという。
  • 近藤康用は祖父が松平清康(=家康の祖父)に仕えていたという。
  • 鈴木重時は父が柿本城(愛知県新城市)を本拠とした三河国足助氏の一門という。

彼らはみな東三河を本拠とする豪族であり、井伊谷出身ではないらしい。しかし、井伊谷三人衆と呼ばれたのは、この出陣によって遠江に所領を与えられ、のちに井伊直政の配下になったからだという。(『改正三河後風土記』)

出陣前日の12日、家康は彼らに起請文を与え、所領を宛行っており(「鈴木重信氏所蔵文書」)、翌13日に徳川軍が井伊谷を制圧した際には、井伊谷城を防戦しようとするものは誰もおらず、小野政次も戦わずして逃亡したという。

なお、このときの直虎ら井伊氏の動向はわかっていない。

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信玄と家康の密約が破綻

駿府を占領した信玄であったが、一方で同じ頃に秋山信友率いる別働隊を遠江国に進軍させ、徳川軍と遭遇して一戦を交える事態を引き起こした。これは明らかに今川領割譲の約束を破るものであり、家康はすぐさま信玄に抗議を入れている。

年が明けた永禄12年(1569年)の正月早々には、信玄から弁明の書状が届いた。
信玄は「自分が知らないところで起きたことであり、すぐに兵を引かせる」というように、とぼけて弁明しているが、これをきっかけに家康は疑念を持ち、信玄を見限ることになった。
家康はのちに武田と敵対することを見据え、上杉謙信や北条氏政との連携に傾いていったのである。

今川氏の滅亡と小野政次の最期

掛川城が降伏・開城

家康は井伊谷の制圧後も、引き続き調略を行なって多くの将を帰順させており、同年2月には氏真の籠もる掛川城攻めに本格的に着手しはじめた。
しかし、予想以上に掛川城の攻略が容易でないと悟った家康は、3月に「今川と敵対する意思はなく、北条と協力して駿府から武田軍を追い払った際には、駿府を氏真に返す」という条件で和睦を申し入れをしたという。

この申し入れに氏真も応じ、両者の間で和睦交渉が重ねられていった。そして家康は今川諸将に起請文を与えて各地の知行の安堵を行ない、ついには和睦を成立させ、5月6日には掛川城を開城させたのであった。

氏真は掛川城を出て、北条氏政の庇護をうけることになった。そしてまもなく、氏政の嫡子・国王丸(のちの北条氏直)を養子として今川の名跡を譲り、戦国大名としての今川氏は消滅となった。

小野政次、処刑される

ところで、井伊谷を逃れた小野政次はどうなったのか?

どうやら政次は家康の追手に捕えられ、まだ掛川城の開城となる前の和睦交渉中の4月7日に処刑となったようだ。
井伊谷が徳川軍に占領されたのが、前年の12月15日だから、それから4カ月足らずの出来事である。

『井伊家伝記』によると、家康が今川方の堀川城を攻めた4月7日、政次に獄門の処分が下された。
その罪は井伊直親を讒言によって殺害し、その後に井伊直政をも消そうとしたことであるゆえ、政次は井伊谷で即座に処刑され、2人の子も5月7日に処刑された、と伝わる。


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