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「尼子晴久」山陰山陽8カ国の守護となり、尼子最盛期を築く!

尼子晴久の肖像画
中国地方の戦国大名というと毛利元就がもっとも有名であろう。実際、戦国時代の後半期に毛利は中国地方をほぼ制圧する大大名となっている。しかし、毛利氏台頭の前は中国地方の最大勢力は尼子氏であり、山陰山陽11カ国のうち8カ国を領域に置いた尼子氏の当主が尼子晴久である。

誕生~家督相続

永正11年(1514年)に尼子晴久は出雲国の戦国大名尼子家に生まれた。当時の当主は晴久の祖父である尼子経久であり、その次期当主は晴久の父親である政久だった。晴久はこの政久の三男だったので、晴久が家督を継ぐなら祖父、父、兄の順だったことから、相当の時間がかかるとみなされていた。

そんな中、永正15年(1518年)に父政久が磨石城の戦いで討ち死にしてしまう。大永元年(1521年)に祖父の尼子経久が山陰・山陽地方の11カ国を平定するも、享禄3年(1531年)に経久の三男である塩冶興久が謀反を起こす(塩冶興久の乱)。このとき、これを鎮圧するために晴久も経久方として参陣している。また、興久と経久の両者は和睦中の大内氏に援軍要請をしているが、大内氏は経久方を支援することにしたようである。この反乱は天文3年(1534年)にようやく鎮圧され、塩冶興久は最期は自害に追い込まれている。

天文6年(1537年)、晴久24歳のときに祖父の尼子経久が隠居。既に2人の兄は亡くなっていたため、三男の晴久が尼子氏の家督を相続することになる。晴久は当主として領土拡張政策を実施していく。

尼子氏の最盛期を迎える

晴久は家督を相続した同年、大内氏が支配していた石見銀山を奪い、大きな資金源を確保することに成功。天文8年(1539年)には播磨の置塩城主である赤松晴政を攻撃して播磨国へも進出。さらに播磨三木城の別所就治を攻め、別所氏を味方にしたことで赤松晴政を堺へと逃亡させている。しかし、これに危機感を持った室町幕府将軍・足利義晴大内義隆に尼子を攻撃するように要請したため、尼子・大内間の表面上の同盟関係は崩壊することになった。

天文9年(1540年)には、大内氏傘下の毛利氏攻略のため、安芸国の吉田郡山城を攻め立てたが、毛利元就の激しい抵抗にあって失敗に終わってしまう。しかも、このときに安芸国の同盟者・安芸武田氏が毛利軍に攻撃されて滅亡している。(吉田郡山城の戦い

天文10年(1541年)には祖父の尼子経久が死去する。勢力拡大を図りたい晴久にとってはなかなか思い通りにならない時期が続く中、天文11年(1542年)に大内義隆が毛利元就らを従えて45000人の軍勢で出雲の月山富田城に攻め寄せてくる。しかしながら、月山富田城は「天空の城」と呼ばれるほど高い場所に築かれた非常に堅固な城だったので、大内・毛利連合軍の攻撃に耐え切って大内と毛利は撤退することになる。こうして第一次月山富田城の戦いに晴久は勝利する。

天文12年(1543年)に大内家に奪われていた石見銀山を再び奪回することに成功する。以後、晴久は中国地方において一進一退を繰り返していくことになる。天文13年(1544年)には因幡国の山名久通を攻撃して配下にするも、山名祐豊が台頭したことで因幡国から撤退し、天文17年(1548年)には美作国東部の三浦家を配下に組み込んだが、毛利元就に安芸国および備後国を攻略されることになる。天文20年(1551年)には大内重臣の陶晴賢によるクーデター(大寧寺の変)で大内義隆が討たれ、晴久はこの陶氏と同盟を締結する。

翌年の天文21年(1552年)に山陰・山陽の8ヶ国(出雲国、備中国、隠岐国、備後国、伯耆国、備前国、美作国、因幡国)の守護職を拝領する。天文23年(1554年)には晴久にとって粛清の年だった。一族の尼子国久と尼子誠久が離反を計画していたことを事前に察知してこの2人を謀殺(新宮党の変)。これで尼子晴久の権力基盤がさらに強くなり、出雲一国は晴久の直轄領になる。この時期が尼子家にとっての全盛期にあたる。

毛利との戦いから病没まで

弘治元年(1555年)に毛利元就が厳島の戦いで晴久の同盟者だった陶晴賢を打ち破り、晴賢は自刃することになる。弘治2年(1556年)に毛利家臣の口羽通良と吉川元春らが石見国に侵攻し、晴久の家臣である刺鹿長信が守る山吹城を陥落させる。同年、吉川元春は石見銀山も確保。

弘治3年(1557年)には毛利元就は石見国もほぼ完全に勢力下に置いて、残るは尼子氏の配下の小笠原長雄が守る温湯城のみになる。大内義長を自刃に追い込み、大内家を滅亡させた毛利氏はその勢いのまま永禄元年(1558年)に自ら温湯城を攻撃する。それに対して尼子晴久も自ら1万5千もの軍勢を率いて山吹城奪回に向かう。山吹城を狙った理由はここが毛利軍への補給地としての役割を担っていたからだ。これを奪還した晴久は調略作戦を展開して石見銀山を手中に収めることになる。

さらに、永禄2年(1559年)に温湯城の救援に向かい紅の川で毛利軍と一触即発の状態になるが、最終的に戦うことなく晴久は月山富田城に帰還する。この晴久の不可解な行動に温湯城の小笠原長雄は裏切られた気持ちになって早々に毛利元就の軍門に降る。毛利元就は翌年14000人の軍勢を率いて山吹城を攻撃する。その攻撃中に尼子晴久は病気になって永禄3年(1561年正月)に病没する。享年47という若さだった。


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