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「山中鹿之介(幸盛)」主家・尼子氏の再興に尽力!尼子十勇士の筆頭。

山中鹿之助の肖像画
勇猛果敢なエピソードが多々残る戦国武将の中でもその苛烈な人生から「山陰の麒麟児」と呼ばれた男、山中幸盛。戦国時代真っ只中にあって数々の武勲を上げ、主君であった尼子家再興に人生を捧げた男の生涯を紐解いてみたい。

出生から独り立ちへ

山中幸盛、通称「鹿之介」は山陰の出雲国(現在の島根県)に生まれたとされている。山中家は代々尼子家を主君として仕える家臣の家であった。しかし、幸盛自身についても山中家についてもその出自やルーツを示す歴史的資料が乏しく正確な事実関係ははっきりしていない。父の満幸は尼子家の家老であったが、早逝しており幸盛は母親の手によって育てられたとされている。

幼少期から勇猛果敢で聡明な子供であり、8歳で敵を討ち取り13歳で首級を上げて手柄をたてたとされている。 幸盛は次男であり、家督を相続する立場にはなかったが、兄の山中幸高は生来病弱で武将には向いていなかったとされ、1560年に幸盛は家督を譲られている。家督を継いだ際、三日月に「我に七難八苦を与えたまえ」と願ったというエピソードは有名である。

同年、幸盛16歳の時、主君であった尼子晴久が急死し20歳の義久が家督を継ぐ。これを契機に中国地方で力をつけて勢いに乗っていた毛利元就が石見に侵攻してくる。幸盛は義久に従い尾高城の攻略へ向かい武勲を上げている。これが幸盛の初陣となった。 侵攻してくる毛利勢に対して、義久は室町幕府の仲介で毛利側と和睦を進めるが、石見に関して不利な条件での和睦を認めてしまい、結果、尼子側は劣勢に立たされ勢力の崩壊の要因となってしまう。

尼子家滅亡へ

表向きは和睦が成立していた両家であったが、毛利側は水面下で尼子家攻略への策略を着々と進めており、永禄5年(1562年)6月、石見の尼子勢力を調略することに成功する。石見勢力が毛利になびいたことで尼子家を本格的に滅ぼしにかかった毛利軍は一方的に和睦を破棄し、出雲に進軍を開始し、尼子の本拠・月山富田城攻めにとりかかることになる。

尼子当主の尼子義久は難攻不落とされた名城・月山富田城に籠城し、他の尼子勢力の支城と共に毛利勢を迎え撃った。

毛利軍はまず、月山富田城の防衛網である尼子方の支城の攻略に動きだしたが、その一つ・白鹿城に攻め寄せてきた。幸盛はこの城の救援のために従軍したが、毛利軍の勝利によって尼子軍は月山富田城まで撤退を余儀なくされてしまうことに。この撤退の際に殿を務めたのが幸盛であり、約200の兵で追走してくる吉川元春小早川隆景の両軍の追撃を7度に渡って食い止め、敵の首を7つ討ち取ったとされている。なお、白鹿城は永禄6年(1563年)10月に陥落させられることになった。

やがて月山富田城は毛利勢に完全包囲されてしまい、尼子方はその後も各支城を落とされ、ついには補給路も絶たれてしまうことに。永禄8年(1565年)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を開始。尼子勢も応戦する。幸盛は杉原盛重率いる軍勢に加わり、塩谷口で吉川元春の軍勢と相対し、高野監物を一騎打ちで討ち取っている。

幸盛の活躍もあり毛利軍は一時的に撤退を余儀なくされる。その後再び毛利軍が月山富田城を攻めるが、この際も幸盛は品川将員という武将を一騎打ちで討ち取っており、再び毛利軍を退けることに成功している。

こうして幸盛の活躍もあり何度かの毛利軍の攻撃をしのいで見せた尼子勢であったが、毛利軍は月山富田城以外の支城を落とし、月山富田城は援軍や物資の補給もままならない孤立無援状態であったため、徐々に兵糧が尽き兵士の士気も低下し逃亡者が相次ぎ始めた。 これ以上の戦はできないと判断した当主の尼子義久は永禄9年(1567年正月)に毛利側に降伏。城を明け渡した。(第二次月山富田城の戦い

ここに尼子家は実質的な滅亡となった。幸盛は幽閉される主君に付き従いたい旨を陳情するが聞き入れられず、出雲大社にて主君と別れることとなった。

尼子家再興に尽力

月山富田城の戦いに敗れて以降、幸盛の目的は尼子家の再興となる。主君と家を無くした幸盛は牢人となって各地を流浪したとされている。しかし、約2年間続くこの牢人時代の幸盛の足取りについては、正確な資料は存在せず詳しい事はわかっていない。

永禄12年(1569年)、毛利軍が九州の大友氏を攻めるため北九州へ進軍すると、幸盛は尼子復興を支援していた山名祐豊を頼って挙兵。出雲国へ侵攻を開始する。この時の兵団は牢人時代に募った尼子遺臣たちで形成されていた。 ちょうどこの頃、幸盛は妻に亀井秀綱の娘を迎えており、1571年には長男とされる山中幸元が生まれている。 尼子軍は幸盛の声に呼応した再興希望者が続々と集結、3000余りの軍勢となって新山城を攻略。その後も石見を中心とした支城を16陥落させ、その勢力を6000余りにまで拡大させた。

しかし元就が派遣した再興軍鎮圧部隊に手こずったこともあり、肝心の元居城であった月山富田城の奪還までには至らなかった。 当初は勢いのままに攻勢に出ていた再興軍であったが、急遽作り上げた軍であったため、時期を追うごとに組織としての統制維持が乱れ始め、1570年の布部山の戦いで毛利鎮圧軍に大敗を喫したことをきっかけにその勢いは著しく低下していく。幸盛は布部山の戦いでも殿を務め奮戦するが、結果的に敗戦している。元亀2年(1571年)には最後の拠点であった新山城も落城し、幸盛は捕らえられ幽閉されてしまう。その後幽閉先からの逃亡に成功した幸盛は山名豊国家臣を経て、京都へ上洛。

天正元年(1573年)織田信長に謁見し、信長を後ろ盾にして再び因幡へ侵攻。東因幡一帯を支配することに成功し、一時的に尼子家再興を達成する。しかし、但馬の山名氏の裏切りや、尼子遺臣たちの相次ぐ敗戦などにより因幡で徐々に孤立していき、1576年、因幡からの撤退を余儀なくされる。

晩年から最後まで

因幡から撤退した幸盛は信長を頼り再び京へ上る。明智光秀軍へ加わった後、播磨侵攻へ向かう羽柴秀吉軍へ帯同。上月城を攻略すると、主君であった尼子勝久と共に入城。最後の尼子家復興の足がかりとする。

しかし、天正6年(1578年)、三木城の別所長治が信長に反旗を翻し、毛利軍はこれを契機に3万の軍勢で播磨に侵攻、上月城を包囲した。秀吉は救援に向かったが、信長よりの指示で三木城攻略を優先しなければならなかったことや、高倉山の戦いで毛利軍に敗北していたこともあり上月城救援を断念。幸盛たち尼子勢は孤立無援となってしまう。なすすべがなくなった尼子勝久・山中幸盛が守る上月城は同年7月に毛利勢に降伏した(上月城の戦い)。

捕らえられた幸盛は毛利輝元の下へ護送される手はずとなっていたが、同7月17日護送中の備中国合の渡で謀殺された。最後まで悲願であった尼子再興は叶わなかった。


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