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「長井長弘」美濃守護代に代わって台頭した小守護代の運命とは?

戦国時代を代表する下克上の代表格・斉藤道三。彼が美濃で成り上がる礎となったのが美濃国の小守護であった長井長弘である。彼もまた、様々な策を弄して主家を超えようとした男であった。果たして主家を凌駕したその先に待っていたものは栄誉だったのか、それとも…。

土岐氏の後継者争いで頼芸を擁立

長井長弘は美濃国守護代・斎藤氏の庶流にあたる美濃長井氏の当主とされる。生年は不詳だが、美濃小守護代で関城主だったという記述が残されており、斉藤利安と同一人物ともされている。小守護代とは守護の代官である守護代の、そのまた代理の役である。

明応5年(1496年)に美濃守護代の斉藤利親が近江の六角高頼討伐中に没し、後継ぎの斉藤利良が幼少だったことから同族の長井利隆(竹ヶ鼻城主)とともに補佐したというが、永正14年(1517年)に美濃国守護・土岐氏の後継者争いが勃発すると事態は一変する。
当時の美濃守護・土岐政房は嫡男の頼武を差し置いて次男の土岐頼芸を推したため、頼芸を担ぎ上げた長弘と男頼武を奉じる守護代の斉藤利良が対立。もはや一戦交えることになるのは火を見るより明らかであった。

腹心の暗躍で形勢逆転、美濃の実権を手中に

永正14年(1517年)からの合戦は当初は頼武方が優勢だったが、翌年には頼芸方が形勢を覆して勝利。頼武は妻の実家の朝倉氏を頼って妻子とともに越前へと逃れたのだが、永正16年(1519年)に父の政房が没した後で朝倉氏の支援を得た頼武が再び舞い戻り、家督と美濃守護職を継承。つまり、この時点で頼芸派は敗れてしまったのである。

しかし、ここから頼芸と長弘の政権奪取がはじまる。長弘の腹心で、頼芸の寵臣として篤い信頼を受けた松波庄五郎(のちの長井新左衛門尉)が策を巡らせ、その暗躍が奏功するなどして徐々に劣勢を挽回、主家である斉藤家の本拠稲葉山城をも奪い、享禄3年(1530年)にはついに頼武を再び越前に追いやることに成功する。頼芸が実質的に守護の座につくことによって守護代・斉藤家に替わり、ついに長弘が美濃の実権を手中に収めたのだった。

あまりにも早い幕引き

しかし長弘が実権を握る日は長く続かなかった。天文2年(1533年)には腹心の長井新左衛門尉が亡くなり、その子である長井規秀(のちの斉藤道三)が史料にはじめて登場しているが、同年に長弘も没している。その最期は越前に追放された土岐頼武に内通したとして上意討ちの名目で、長井新左衛門尉、もしくは道三の手で殺害されたと伝わる。

長弘には景広という子がおり、長弘の死後に家督を継いだとされる。長井景広と長井規秀との連署状が残されており、しばらくは良好な関係があったと推察されるが、それ以後景弘の名が世に出ることは無い。若くして病没したか、あるいは道三に殺害されたと見られている。美濃にまつわるこの後のいきさつは、多くの戦国ファンならよくご存じの通り。

今回は長井長弘という、いち武将の生涯をかいつまんで紹介してみた。小守護代という陪臣の立場から一挙に主家たる守護代を圧倒した行動力には戦国の浪漫溢れるものがある。縁故のようなものとはいえ、一介の油商人の才を見いだして重く用いた眼力にも驚嘆を隠し得ない。一方でその見いだした男の危険性に気付くことが出来なかった運の無さ、あるいは理解した上で重用していたのか…ここにも未だ解き明かされない歴史の浪漫が沢山つまっている。
彼の生涯が、権謀術数あまた渦巻く下克上の世で生き残るのがいかに難しいか…それがよく分かるものであることに、異論を唱える者はいないだろう。


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