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「立花道雪」武を好み、その勇猛ぶりに敵から恐れられた大友家の宿将。

立花道雪の肖像画
大友宗麟に仕えていた立花道雪は勇猛果敢な武将として知られているが、主君が没落していく中でも最後まで忠義を尽くした武将でもある。この記事では大友家中で重要な役割を果たした道雪の生涯をみていく。

大友一族の家に生まれる

立花道雪は永正10年(1513年)3月に九州の大友氏の一族・戸次親家の次男として誕生した。

幼名は「八幡丸(はちまんまる)」といったが、これには由来がある。道雪には兄がいたが早世していた。そこで両親は祚原八幡宮に子宝を祈願した結果、道雪が生まれたことからこの名前が名づけられたという。母は道雪が幼いころに亡くなったため、後妻である臼杵長景の娘・養孝院に育てられた。

道雪が14歳となった大永6年(1526年)、大内氏が豊前の馬ヶ岳城を占領すると、病気の父の名代として2千の軍勢を率いて初陣を果たす。対する大内軍は5千もの兵ゆえに圧倒的不利な状況だったが、これに勝利している。その後まもなくして父の親家が死去したため、道雪は元服して戸次氏の家督を継ぐことになる。

「雷神」道雪の武勇

家督相続後は大友義鑑に仕え、頭角をあらわして武功を重ねていく。

『大友興廃記』によれば、道雪が36歳となった天文17年(1548年)頃に半身不随になったという。彼が故郷で昼寝をしていたときに急な夕立となった。そして雷が落ちかかる中、道雪は立ち上がって愛刀の千鳥を抜いて雷を一刀両断。この日以降、道雪の左足は不随となったが、彼の太刀には雷に当たった印が残ったため、これよりこの太刀を「雷切」と名づけたと伝わる。

天文19年(1550年)2月には二階崩れの変が勃発。これは当主の大友義鑑が嫡男義鎮(のちの大友宗麟)を廃嫡して三男の塩市丸を後継者にしようとしていたため、津久見美作や田口鑑親ら義鎮派の大友家臣がこれに反発して 義鑑・三男塩市丸・塩市丸の生母(側室)の3人を襲撃した大友氏のお家騒動である。

この事件で三男塩市丸が殺され、義鑑も重傷を負ってまもなく死亡したため、宗麟が跡を継いで当主となるのだが、このとき道雪も義鎮派として彼の家督相続に貢献している。

天文22年(1553年)に道雪は異母弟である戸次鑑方から養子を取って、その戸次鎮連に家督を譲って隠居した。このとき41歳だった。しかしながら、隠居した身とはいえ、天文23年(1554年)に道雪は肥後に侵攻して菊池義武を滅ぼし、弘治3年(1557年)に秋月文種を2万の軍勢を率いて攻撃して自害に追い込んだ。

毛利軍・龍造寺との戦い

永禄元年(1558年)からは、北九州に進出してきた毛利元就の軍勢と大友勢がたびたび交戦、門司城の戦いと呼ばれる毛利勢との戦いは、およそ5年にわたって繰り広げられた。

道雪はこの戦いで寝返った筑前の宗像氏貞と交戦するなど、武功をあげている。第一次門司城の戦いで小早川隆景率いる毛利軍と戦ったとき、道雪は8百ほどの弓衆を揃えて毛利陣営に「参らせ戸次伯耆守(=道雪)」と書かれた紙を矢に付けて撃ち込ませたが、これを目にした毛利軍はビビって最終的には撤退に追い込まれたという。
また、永禄5年(1562年)10月の毛利軍との戦いのときには、毛利方の大将である冷泉元豊・赤川元徳(赤川助右衛門)・桂元親(桂兵部大夫)の三人を自ら討ち取っているのである。

なお、同年には宗麟が出家しているが、まもなくして道雪も剃髪して出家している。

永禄10年(1567年)の休松の戦いでは、毛利元就のバックアップを受けた秋月種実が筑前に侵攻すると、大友軍は苦戦を強いられて多くの家臣を失ってしまった。その後は筑前の重要拠点である立花山城が毛利方の手に渡ったこともあり、多くの筑前国衆が大友家中から離れていくことに…。
ただ、この敗戦にあっても道雪個人は「自ら太刀を振るって良き敵7人を斬り倒した、騎馬で敵陣に乗り込んで戦った、敵から"鬼道雪"と呼ばれた etc...」と伝わるように大活躍している。

この後、道雪は大友家の危機的状況を打開するため、永禄11年(1568年)4月24日に立花山城を攻囲した。この攻防戦は3ヶ月にもわたる戦いだったが、7月23日に立花山城を陥落させて、城主の立花鑑載は自害した。それから、毛利軍の清水宗知、原田親種、原田隆種などを打ち破って筑前の勢力を掃討していった。

永禄12年(1569年)正月、大友宗麟は5万の軍勢を率いて肥前の龍造寺隆信の討伐に向かった。しかしながら、毛利軍がちょうど立花山城を奪還するために攻撃していたので、道雪はこの状況を考慮して龍造寺方と和睦。
立花山城が陥落したという知らせを聞いて大友軍は毛利軍を攻撃。このとき道雪は鉄砲隊を2つに分けて二段射撃をする「早込」という戦法、それから槍隊を出してから騎馬隊をその中に突入させるという「長尾懸かり戦法」を繰り出して小早川勢を圧倒、撃破している。

同年11月、毛利軍は出雲に山中鹿之助が侵攻したこともあって北九州から撤退。ちなみに、この戦いの最中の8月13日に待望の子供(のちの立花闇千代)が生まれている。

元亀2年(1571年)にはこれまでの功績から筑前国の守護代に任じられ、立花山城の城主となっており、この頃より筑前国の軍事指揮権も与えられている。天正3年(1575年)には宗麟の命令で立花家の家督を戸次統連に譲るよう命令されるが、道雪はこれを拒否して重臣の薦野増時から養子に迎えようとした。しかし、当の薦野増時がこれを拒否したので、7歳の一人娘・立花ぎん千代に家督を譲り、彼女を立花城の城督とした。これは戦国時代において稀な例らしい。

没落する大友氏。晩年の道雪は?

天正6年(1578年)には主君・大友宗麟が島津家を討伐するために日向に侵攻。道雪はこれに最後まで反対するも、道雪不在の中で行われた耳川の戦い島津義久に大敗を喫してしまう。この大敗を知った道雪は、宗麟や嫡子の大友義統、そして出陣した重臣らを痛烈に批判したという。
これ以降、大友家は多くの家臣の離反が相次ぎ、島津や龍造寺に勢力を削り取られて没落の道を辿っていくことになる。しかし、そうした中でも道雪は忠義を尽くして最後まで裏切らず、筑前・筑後・肥前の勢力に対して数々の合戦を繰り広げていった。

天正9年(1581年)には高橋紹運に対して長男の統虎(のちの立花宗茂)を養子にくれるように要請し、娘のぎん千代を娶らせて、彼に立花家の家督を継承させている。

天正12年(1584年)、龍造寺隆信が島津軍に討ち取られた沖田畷の戦い以降、道雪は破竹の勢いで奮闘し、筑後の大半を奪回することに成功する。しかし、翌天正13年(1585年)に柳川城を攻めている最中で病没となった。享年73。辞世の句は

異方(ことかた)に 心引くなよ 豊国の 鉄(かね)の弓末(ゆずえ)に 世はなりぬとも


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