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朝倉義景 -浅井とともに信長に滅ぼされた戦と無縁の文化人-

朝倉義景(あさくら よしかげ、1533-1573年)は将軍家と親しい間柄にあり、京都の文化を受けて大きく発展した城下町を持つ越前・朝倉氏の第11代当主。


経歴

1533年(天文2年9月24日)、越前朝倉氏の第10代当主の朝倉孝景(あさくら たかかげ、第7代孝景は第10代孝景の曾祖父)と若狭武田氏一族の武田元信、又は武田元光の娘とされる広徳院(光徳院)との間に嫡男として誕生。
当時、父・孝景の年齢は40歳で、唯一の実子であったとされている。 幼名は長夜叉。

義景の母 広徳院(光徳院)の出身については、『若州武田之系図』、『武田系図』の双方で若狭武田家出身として記されているが、広徳院(光徳院)の父の表記に関しては異なっていて、武田元信か武田元光であるのかは定かではない。
また義景の出生について、父 孝景と六角氏との間の密約や、義景の側近に六角氏系の苗字が多いこと、六角氏の内紛に介入していたこと、六角氏様式の花押と朝倉氏式を併用していたこと、 六角氏綱の子で仁木氏の家督を継承した仁木義政と親しい間柄であった、などの事実から義景は近江六角氏からの養子であった、という異説もある。
さらに義景の幼少期に関しても不明な点が多く、守役や乳母に関して一切不明で、伝わっている逸話もほとんどない。

1548年(天文17年3月)、父・孝景の死去に伴って家督を相続、第11代当主となり孫次郎延景と名乗った。

天文同年9月9日、第11代当主就任の挨拶を京都に対して行なったという(『御湯殿上日記』)。
当時は義景が若年だったこともあり、一族の名将・朝倉宗滴が政務や軍事の補佐を行なった。一方で同年に管領の細川晴元の娘を正室に迎えている。

正室である細川晴元の娘は、後に女子を出産するが出産直後に死去。その後、近衛稙家(このえ たねいえ)の娘(通称:ひ文字姫、「ひ」しか署名しないことから呼ばれるようになった)を継室として迎えるものの子供が産れず、後に離縁している。

1552年(天文21年6月16日)、室町幕府第13代将軍・足利義輝から「義」の字を受けて義景と名乗った。また、この頃に左衛門督に任官。

1555年(弘治元年)、義景の政務や軍事の補佐を行ってきた宗滴が死去。これにより義景自ら政務を執るようになる。しかし、義景は学問や芸事にばかりふけ、遊芸を好み、居城・一乗谷の館も京洛の華やかさや美しさを真似ていたという。なお、この頃の出来事については記録に残るようなことも無く、朝倉家と越前国は戦国時代においても平穏を保っていたようである。

1559年(永禄2年11月9日)、従四位下に叙任。

1561年(永禄4年)、元は母・高徳院に仕えていた側室の小宰相(こさいしょう、重臣・鞍谷嗣知の娘)との間に長男・阿君丸(くまぎみまる)が誕生した。

後に小宰相は死没。阿君丸も義景にとっては初めての男子だったため、早くから世子として指名されていたが、1568年(永禄11年)6月25日、7歳という若さで死去している。義景は阿君丸の死を機に失意に陥り、その後は政務を放棄して鬱々とした生活を送ったといわれている。

1563年(永禄6年8月)、若狭守護 武田義統(たけだ よしずみ)が守護として家臣を統率する力を失っていたことから、若狭国の粟屋勝久(あわや かつひさ)や逸見昌経(へんみ まさつね)らが丹波国の松永長頼、内藤宗勝と通じて謀反を起こしたため、義景は粟屋勝久を攻撃。
その後、1568年(永禄11年8月)まで、朝倉軍は粟屋氏攻撃のために若狭出兵を繰り返している(主に秋)。

1564年(永禄7年9月1日)、朝倉軍は大将に朝倉景鏡と朝倉景隆を立てて加賀に出兵。 永禄同年9月12日には義景も出陣して本折(もとおり、現在の石川県小松市)を落としたのを皮切りに、9月18日には御幸塚、9月19日には湊川に放火して大聖寺まで進出し、その後、9月25日に戦いを終えて一乗谷の陣営へ戻った。

1565年(永禄8年5月19日)、松永久秀らによって将軍・足利義輝が暗殺される事件が起こった。
義景は5月20日に武田義統の書状から将軍 義輝の暗殺を知り、8月には若狭に出兵した。9月8日、松永久秀によって矢島御所から追われて若狭武田家を頼っていた将軍義輝の弟・足利義秋(のちの義昭)が越前敦賀に座所を移したため、義景は景鏡を使者として遣わし、義秋の来訪を歓迎した(『上杉家文書』、『多聞院日記』、『越州軍記』)。

朝倉家の後援を期待した義秋は、越前朝倉氏と加賀一向一揆の和睦を取り持とうとしたりした。しかし、両者の長年の対立は深刻で、すぐに和睦できるものではなかった。

1567年(永禄10年3月)、家臣の堀江景忠(ほりえ かげただ)が加賀一向一揆と通じ、謀反を企てる。

朝倉家は加賀国から攻め込んできた杉浦玄任が率いる一揆軍と交戦しながら、義景は山崎吉家、魚住景固に命じて堀江家に攻撃をしかけた。堀江景忠も必死に抗戦するものの、最終的には和睦し、景忠は加賀国を経て能登国へと落ちた。この内乱は朝倉景鏡の讒言によって起こった内乱であったという(『朝倉始末記』)

永禄同年11月21日、義景は義秋を一乗谷の安養寺に迎え、さらに11月27日には義秋への祝賀の挨拶を行った。 すると12月には、義秋の仲介によって加賀一向一揆との和睦が成立。

義秋は、上杉謙信、武田信玄などの諸大名にも上洛を促す書状を送った。しかしそれら大名家は、隣国との政治情勢などの事情から出兵することは難しかったため、義秋は義景に上洛戦を再三求め、12月25日には義秋が非公式ながらも義景の館を訪問している(『朝倉始末記』『越州軍記』)。
また義秋が発する御内書に義景は副状を添えていて、この頃の義景の立場は、実質的には管領に相当していた。なお「朝倉系図」では、義景の地位を管領代として記している。

1568年(永禄11年3月8日)、足利義秋により義景の母・高徳院(広徳院)が二位の尼に叙せられている。永禄同年4月15日には義昭が朝倉館(一乗谷城の山麓に建てられた居館)で元服、「秋」の字は不吉であるとして名を義昭と改めている。

その後も義昭は朝倉館を訪問し、義景だけではなく朝倉一門衆とも関係を深め、上洛戦を求めた。しかし、6月に義景の嫡男である阿君丸が急死したことで義景は悲しみ、失意に陥る。

上洛を望む義昭に反し、失意の義景が上洛する兵をなかなか上げなかったため、義昭は7月になると明智光秀を誘い、美濃国を支配下に置き勢いに乗っていた織田信長を頼り、越前を離れようとする。義景は止めようとするが、義昭は滞在中の礼を厚く謝する御内書を残し、越前国を去っていった。

8月、義景は若狭守護・武田氏の内紛に乗じて割り込み、当主であった武田元明(もとあき)を保護するという名目で小浜から連れ去り、越前国一乗谷に軟禁して若狭を支配下に置いた。しかし、武田家の家臣 粟屋勝久や熊谷氏らは義景に従属することを拒否して頑強に抵抗したため、若狭を完全に平定したとは言えない状況であった。

9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たし、足利義昭を室町幕府第15代将軍とした。

その後、信長は将軍義昭の命令として各地の大名に上洛を要請した。しかし、義景はこの要請を2度にわたって無視している。これは義景が信長への従属、そして長期間・本国を留守にすることを嫌ったものであるとされている。

1570年(永禄13年4月20日)、これに信長は”義景に叛意あり”として、義弟・浅井長政との「朝倉への不戦の誓い」を破り、越前へ攻撃をしてきた。
織田・徳川連合の攻勢を前に、支城であった天筒山城と金ヶ崎城が陥落させられると、義景は後詰のために浅水(あそうず、現在の福井県福井市)まで出兵するも、居城・一乗谷で騒動が起こったとして引き返した。

しかし突如、浅井長政が信長から離反し、織田・徳川連合を急襲。挟撃の危機にさらされた信長は京都へ撤退し、義景は難を逃れたのであった。

しかし、同年6月28日(元亀元年に改正)、体勢を立て直した信長が浅井長政への報復のため、近江へ進軍を開始した(姉川の戦い)
長政から援軍要請を受けた義景は朝倉景健を総大将に8,000の援軍を派遣。しかし、浅井・朝倉連合は敗戦し、長政は支城・横山城を失ってしまう。

8月25日に摂津で反織田勢力の三好三人衆らが挙兵すると、石山本願寺の顕如もこれに呼応し、織田軍は摂津国への出兵を余儀なくされる(野田城・福島城の戦い)。

これに乗じて義景は長政とともに出陣し、南下して織田領の近江坂本へ侵攻し、信長の重臣・森可成らを討ち取るなど戦功をあげた。しかし、これを知った信長は摂津戦線をあきらめて軍を近江に引き返してきたため、義景ら浅井・朝倉連合軍は比叡山の協力を得て延暦寺に立てこもり、織田軍と長期の対陣となった。
しかし、各地で反織田勢力が挙兵したため、織田方から講和が持ちかけられ、義景ら浅井・朝倉連合はこれを受け入れて和睦となった (志賀の陣)

1571年(元亀2年6月11日)、義景は顕如(本願寺)と和睦して、娘を顕如の嫡男・教如(きょうにょ)と婚約させている。

元亀同年8月、義景は浅井長政と共同で織田領の横山城、箕浦城を攻撃。しかし、信長に戦場の後方を脅かされ敗北した。
さらに9月には信長が志賀の陣で浅井・朝倉連合に協力したとして、比叡山延暦寺を焼き討ちにして壊滅させた。

1572年(元亀3年7月)、信長が再び北近江への攻撃を開始、小谷城を包囲して虎御前山、八相山、宮部の砦を整備し始める。これを知った浅井長政は義景に「長島一向一揆が尾張と美濃の間を封鎖したので、今出馬してくれれば織田軍を討ち果たせる」と嘘を言って援軍を要請、義景は1万5,000もの軍勢を率いて近江に駆けつけた。

しかし義景は織田軍に対し積極的に攻撃をしかけることはしなかった。そして織田軍から間をおいて攻撃を受けると前波吉継や富田長繁といった有力な家臣たちが信長方へ寝返ってしまった。

元亀同年9月に信長の整備した砦が完成すると、信長は再び日時を決めて決戦を行うことを申し入れてくるが、義景はこれを無視。9月16日になると信長は羽柴秀吉を砦に残し、横山城へ撤退した。

同年10月、甲斐国 武田信玄が西上作戦を開始。遠江・三河方面へ侵攻する武田軍により、徳川軍は次々に城を奪われた。 信玄はこの西上作戦での出兵の際、義景に協力を求めた。これを受け信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共に信長を攻撃するものの虎御前山の砦で羽柴秀吉の隊に敗れた。

その後の12月3日、義景は部下の疲労や積雪を理由に越前へ撤退、北近江に縛られていた織田勢は美濃に戻った。 これに対して武田信玄は信長包囲網を勝手に解いて離脱した義景を激しく非難し、1573年(元亀3年12月28日)義景に対し再出兵を促す手紙を送りつけた(伊能文書、いのうもんじょ)。

しかし義景はそれに応じずに無視。そのため元亀4年2月16日、信玄は顕如に対して義景に対する恨みごとを言いながらも再出兵を要請。さらに顕如も義景へ再出兵を求めた。ところが義景は全く動かなかったため、信玄は進軍を再開。徳川家康領であった野田城を攻め落とした。

しかし同年4月12日に信玄が急死し、武田勢は甲斐へ退却。これにより信長包囲網が一部破綻し、信長は多くの軍勢を近江や越前への朝倉家へ向ける事が出来るようになった。

1573年(元亀4年3月)将軍 足利義昭が槇島城(まきしまじょう、現在の京都府宇治市)で兵を集め、戦いを起こした。信長は義昭に和睦を申し出ますが義昭は拒絶。
同年4月には一旦和睦するものの、7月になって義昭が再び挙兵すると、信長は戦闘に及び義昭を降伏させた。 そして7月20日に義昭を追放し(槇島城の戦い)、7月28日には元亀から天正に改元させた。 これにより、室町幕府は実質的に滅亡した。

さらにに8月8日に浅井家の重臣で山本山城の城主 阿閉貞征が織田方へ寝返ったことで、これを好機とみた信長は、 3万の軍勢を率いて再び北近江への侵攻を開始。
これに対し、義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとした。しかしこれまで数々の失態を犯し重ねてきた義景は、 既に家臣の信頼を失いつつあったため、「先ず、式部大輔景鏡、出陣あるべきの旨、義景宣いける処に、所労もってのほかなる由にて立たず。魚住備後守は、江州丁野の城の番手にありけるの条、人馬をくつろぐべしとて、是も立たず(疲労で出陣できない)」( 『越州軍記』)として重臣の朝倉景鏡、魚住景固らは義景の出陣命令を拒否した。そのため義景は、山崎吉家(やまざき よしいえ)、河井宗清(かわい むねきよ)らを招集して2万の軍勢を率いて出陣した。

8月12日、信長は暴風雨を利用して朝倉軍の砦である大嶽砦を攻撃。信長のすさまじい勢いでの奇襲によって朝倉軍は大敗、砦から追われてしまう。
翌8月13日には丁野山砦が陥落したため、義景は浅井長政と連携が取れず、越前への撤兵を決断。

ところが義景の撤退を予測していた信長によって、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍から追撃を受け、この田部山の戦いで朝倉軍は大敗、柳瀬へ逃げた。

信長からの追撃が厳しかったため、朝倉軍は逃げる途中の刀根坂において織田軍に猛追され、壊滅的な被害を受けた(刀根坂の戦い)。 そして、この戦いによって力のあった武将たち、斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延らが戦死。 義景は命からがら疋壇城に逃げ込み、さらに疋壇城からも逃走して一乗谷を目指しますが、将兵の逃亡が相次ぎ、 残ったのは鳥居景近(とりい かげちか)や高橋景業(たかはし かげあきら)たち10人程の側近のみとなった。

義景は8月15日に一乗谷城に辿り着いたものの、一乗谷の留守を守っていたはずの将兵の大半は朝倉軍の壊滅を知り、逃走していた。 義景が出陣命令を出しても、従兄弟の朝倉景鏡以外は出陣すらしなかったという。

この時の義景の悲惨な状況について、「義景15日に館へ入せ玉へば、昔の帰陣に引替、殿中粧条寂莫として、 紅顔花の如くなりし上籠達も、一朝の嵐に誘はるる心地、涙に袖をしぼり、夜の殿に入せ玉ひても、外の居もなし。寝頭に星を烈し武士老臣も、満天の雲に覆われて、参する人独もなかりければ、世上の事何とか成ぬらんと、尋聞かるべき便もなし」と 『越州軍記』に記されている。

自害を決心した義景であったが、最期まで残った側近の鳥居景近や高橋景業らに止められて断念。翌8月16日に義景は景鏡の勧めで一乗谷を放棄、東雲寺に逃れた。
翌8月17日、平泉寺の僧兵に援軍を要請したが、織田方と内通していた平泉寺は東雲寺を逆襲。このため義景は8月19日夕刻、景鏡から「防備の不安あり」と勧められ、賢松寺に逃れることとなった。

その一方で8月18日、信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込んだ。信長の率いる織田軍が柴田勝家を先鋒として朝倉氏居城の一乗谷城(現在の福井県福井市)を攻め、城や神社仏閣などに放火し焼き払い、この猛火は三日三晩続いた。

そして義景は景鏡の勧めで山田庄(大野郡)の賢松寺まで逃れるが、8月20日の早朝、信長と通じた景鏡が賢松寺を200騎で襲撃してきた。こうして義景は自害を余儀なくされた。享年41歳。

義景の死後、信長の命を受けた丹羽長秀により、高徳院や小少将、愛王丸ら義景の血族の多くが殺害された。

13代将軍・足利義輝からの偏諱

将軍の名から一字を与えられ、さらにそれまでの朝倉家当主が左衛門尉などの三等官であったのに対し、一等官である左衛門督に任命された事は歴代朝倉家当主の中では異例のことであった。
これは父・孝景の時代に、室町幕府の供衆、相伴衆に加わって地位を高めたことや、義景が管領の細川晴元の娘を正室に迎えたことによって幕府と大変親密な関係を構築できたことで実現したとみられている。
また、衰退する室町幕府にとって、朝倉家の守旧的大名の力がさらに必要であったことから優遇されたのではないか、とされている。
さらには庭籠の巣鷹を将軍 義輝に献上し、義輝との交流を深めていたことも知られている。

朝倉義景の略年表

  • 1533年(天文2年)、誕生
  • 1548年(天文17年)、家督を相続し、朝倉氏第11代当主となる
  • 1559年(永禄2年)、従四位下に叙任
  • 1565年(永禄8年)、13代将軍義輝が暗殺され、将軍の弟・足利義秋が越前敦賀に座所を移す
  • 1568年(永禄11年)、足利義秋に上洛を要請されるも動かず
  • 1570年(永禄13年)、金ヶ崎の戦いで信長に攻められるも、浅井長政が朝倉に転じたため、危機を免れる。
    姉川の戦いで浅井長政に援軍を送るも、織田・徳川連合に敗れる
    志賀の陣で比叡山に立て籠もって織田軍と長期間対陣
  • 1573年(元亀3年)、一乗谷城の戦いで敗れたのち、朝倉景鏡の裏切りにあい、自害


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