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本願寺顕如 -信長を10年間苦しめた石山本願寺住職-

顕如(けんにょ、1543-1592年)は戦国時代の浄土真宗の僧で浄土真宗(一向派)第11世門跡。諱は大谷光佐、院号を信樂院という。武力で天下統一を狙う信長を仏敵とし、全国の宗派に信長打倒を呼びかけて信長との決戦を挑んだ。

経歴

1543年(天文12年1月7日)、本願寺第10世の証如(しょうにょ)と室町後期の公卿・庭田重親の娘・顕能尼との間に長子として誕生。幼名は茶々。

この頃、浄土真宗の一派・本願寺教団は石山本願寺(一向宗)を総本山としており、宗主である父・証如は敵対していた細川晴元政権(幕府)や戦国大名家との外交を展開。細川晴元の養女であり、公卿の三条公頼の娘である教光院如春尼(きょうこういん にょしゅん)と顕如を婚約させ、一方で甲斐・武田氏、相模・北条氏、近江・六角氏ら戦国大名とは親交を結ぶなど、基盤の安定を整えて本願寺の体制強化を進めていった。

如春尼の父・三条公頼は本願寺との縁戚関係の構築を望んだ細川晴元の意向によって晴元の猶子となり、その後、六角定頼の猶子ともなっていた。さらに、如春尼の実の姉は武田信玄正室であったため、信玄と顕如は義兄弟にあたる。

証如の時代には本願寺の伽藍(=僧侶が集まり修行する清浄な場所)は城にも匹敵する規模になっており、この本願寺周辺に作られた寺内町(浄土真宗などの仏教寺院、道場などを中心に形成された自治集落)を中心に一向宗は大きく発展していき、石山本願寺は最盛期を迎えようとしていた。

一向宗は通常の宗教のように「宗教や僧侶」が「信者に対して救済する」というものではなく、「信者が人々に対して救済を行う」ということを認めていて、『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』と唱えることで信者同士の団結力は強固になった。強い団結力によって不満を持つ人々とともに立ち上がり「一向一揆」という反乱を起こす等したため、徳川家康や上杉謙信などの多くの大名が一向宗の禁教令を出すなど、本願寺の脅威は時の権力者たちに恐れられていた。

本願寺を継職

1554年(天文23年)、父・証如が死去。これにより顕如が12歳で本願寺を継職し、祖母・慶寿院鎮永尼(けいじゅいん ちんえいに)の補佐を受けて本願寺教団を運営した。

母方の祖父 庭田重親の母 祐心は本願寺第8世であった蓮如の十女であり、また証如の父、母ともに蓮如の孫であったため、顕如は三つの血統から蓮如の血を引いていた。

1557年(弘治3年4月17日)には婚約していた如春尼を妻に迎えている。

顕如の時代の本願寺教団は、父・証如の時代から進めてきた門徒(浄土真宗信者)による一向一揆の掌握と、中央の細川家や公家との縁戚関係をさらに深め、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置して一向宗徒の勢力や財力を拡大し、大名に匹敵する権力を持つようになっていった。

信長との戦い

1568年(永禄11年)、織田信長が第15代将軍・足利義昭を奉じて実力による上洛作戦を展開すると、このときの中央の三好政権は崩壊し、三好三人衆とこれに従属した他勢力の多くが阿波国へ逃亡した。信長が畿内の大和・山城・摂津・河内の大陣方をその支配下に収めると、本願寺を取り巻く環境は一変することになる。

太古の白河上皇に「『賀茂川の水害・双六の目』と並んで制御しがたいもの」とまで言わせた宗教勢力の独立志向、まさにこのときの本願寺が握る強大な権力こそが信長にとっては目障りであり、信長は本願寺派へ圧力を加え始めた。特に畿内制圧後には本願寺系の寺社に矢銭(=軍用金のこと)を要求し、これを断った寺社へは攻撃して支配下に置くなど本格的に圧迫を強めてきたため、顕如は信長と敵対するようになった。

1570年(元亀元年6月)、三好三人衆の1人である三好長逸に通じた摂津の荒木村重が池田城から主君・池田勝正を追放した。これにより三好三人衆は元亀同年7月に摂津に再上陸して中嶋に進出し、野田城、福島城を築城して反織田の兵を挙げた。

8月26日には三好三人衆を討つため信長が自ら摂津へ遠征。この戦いの中で中立を保っていた顕如は以下、一通の檄文をしたためていた。

『信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、破却すべきの由、慥に告げ来り候。
此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり。あなかしこ。 九月六日 顕如 門徒中へ』

この檄文は近江中部の本願寺門徒衆に宛てて書かれたもので、文中に「身命をかえりみず」と記していることから、顕如は戦闘態勢を整えていたのではないか、と考えられている。

9月10日には浅井久政・長政親子へ書状を送っている。
9月13日、顕如は三好三人衆側に味方してついに織田軍への攻撃に踏み切った。これとほぼ同時期には浅井・朝倉連合軍が琵琶湖西岸を南下して織田領への攻撃を開始した。

信長は浅井・朝倉軍が京都にまで侵入することを恐れ、同9月23日には浅井・朝倉への対処のため、摂津戦線から撤退していった(野田城・福島城の戦い)

この戦いは "第一次石山合戦" とも呼ばれ、戦場では顕如の執事・下間頼廉(しもつま らいれん)が優れた戦闘能力を発揮して本願寺勢を指揮したという。これにより、信長と今後10年に及ぶ長い戦いの火ぶたが切って落とされる。

近江の織田領に侵入した浅井・朝倉連合は織田軍が向かっていることを知ると、決戦をさけるために比叡山延暦寺に籠城した。 こうして比叡山に籠城した浅井・朝倉連合軍と織田軍は長期間にわたって対峙して戦線は膠着状態となった(志賀の陣)。
その間、幾内で三好三人衆、南近江で六角義賢など各地で反織田勢力が一気に挙兵した。伊勢国では10月に顕如の檄を受けた門徒が一斉に蜂起している(長島一向一揆)
こうした状況に窮した信長はすぐに顕如・六角氏と和睦し、同年末には朝廷と将軍・足利義昭を動かして浅井・朝倉連合に講和を打診し、戦いを終了させて窮地を脱した。

1571年(元亀2年)にはいると、将軍・義昭と織田信長は徐々に対立。義昭は甲斐国の武田氏、浅井・朝倉連合、さらに摂津で織田軍と戦った三好・本願寺連合軍など反織田勢力をまとめて信長包囲網を構築。本願寺一派も信長包囲網の重要な立場を担っており、顕如は自ら石山本願寺に篭城して雑賀衆ら土豪勢力と協力した。

当初、雑賀・根来衆は織田軍に属していたが、石山本願寺が参戦して本格的に籠城戦となっていくと、根来連合軍が石山本願寺と同じ浄土真宗の門徒であったことから鈴木孫一(=雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前)らが率いる傭兵・雑賀衆と行動を共にして石山本願寺へ入城。信長と敵対していった。

元亀同年5月には信長が5万の兵を率いて伊勢に出陣した。このときは織田方の柴田勝家を負傷させ、氏家卜全と、その家臣数名を討ちとるなど、一向一揆勢力が織田方に勝利した(第1次長島侵攻)

織田家と本願寺の敵対は結果的に一向一揆を激化させることとなった。一方で、近畿の本願寺と織田軍との戦いは冷戦状態であって直接的な戦火の交わりはなかった。(ただし顕如の義兄・武田信玄との同盟のため、越中での一向一揆は継続していた。)
このとき顕如は、長年の宿敵であった上杉謙信とも友好関係を築こうと模索するなど、足利義昭に代わり信長包囲網の中心人物として同盟の構築に尽力していく。

1573年(元亀4年4月12日)、西上作戦を展開していた武田氏は当主・武田信玄が病気により撤退を余儀なくされ、甲斐へ戻る途中で死去した。

これを機に信長は将軍義昭を追放し、朝倉義景・浅井長政の両者を討ち取ると、元亀9月には信長は2度目の長島攻めを各将に通達。再び信長と本願寺勢力との戦いが勃発した(第2次長島侵攻)

顕如は11月18日には信長に茶器「白天目」を送っており、両者の間で和平が成立している。

また、翌1574年(天正2年6月)にも信長は3度目の長島攻めの大動員令を発し、陸と海の両方から長島への侵攻作戦が開始された。この戦いは過去に例を見ない織田の大軍が注ぎ込まれ、織田軍の勝利に終わり、門徒による自治領は完全に崩壊した(第3次長島侵攻)

1576年(天正4年)、足利義昭の呼びかけに応じて毛利輝元が信長包囲網の一翼に参加すると、本願寺に兵糧などの援助を始めた。顕如はこれを機に畿内の信徒に動員令を出して5万の兵力をかき集め、停滞していた本願寺と織田家の戦闘が再燃。摂津天王寺(現在の大阪府大阪市)で織田軍と激突するも敗戦した(天王寺の戦い)

経済的に封鎖された本願寺は毛利輝元に兵糧などの援助を要請した。輝元は要請に応じ、天正同年7月15日には村上水軍など毛利水軍の船が兵糧・弾薬を運ぶために大坂の海上に現れた。織田軍がこれを断つために木津川河口を封じるも、毛利水軍が大勝し、本願寺に兵糧・弾薬を届けた(第一次木津川口海戦)

1580年(天正9年)、抵抗を続けてきた本願寺もついに朝廷を和平の仲介役として信長と和睦し、石山本願寺を退去して紀伊国鷺森別院(和歌山県和歌山市鷺ノ森)に移った。

顕如は、自身が退去した後も各地で抵抗を続ける一向宗に信長への帰順を呼びかけた。しかし、長男・教如が徹底抗戦を唱えて石山に籠城したため、顕如は親子関係を絶った。その後、教如は後に朝廷の勅使となる近衛前久の仲介を受け、信長に城を明け渡すことになった。

1582年(天正10年6月2日)、本能寺の変で信長が亡くなると、顕如は教如と復縁するが、この復縁が後の東西分裂の主な要因となる。

その後、織田家の覇権争いで台頭した羽柴秀吉と友好関係をもち、1585年(天正13年)には石山本願寺の寺内町をもとに、秀吉が建てた摂津国西成郡中島(大阪府大阪市東淀川区)に転居し、天満本願寺を建立して復興させた。天満本願寺は豊臣政権の強い影響下に置かれたが、一方で大坂城下町建設に本願寺とその門徒の持つ経済力や技術力を利用しようという狙いもあったとみられている。

1586年(天正14年)、秀吉の九州征伐に同行するよう命ぜられ、下関に滞在。

1589年(天正17年)、京都聚楽第の壁に書かれた落書の犯人が本願寺の寺内町に逃げ込んだ。さらに秀吉から追われていた斯波義銀、細川昭元、尾藤知宣の3名が天満に隠れているという情報を入手したため、天正同年3月に寺内成敗が石田三成によって行われた。この際、斯波義銀たちは捕らえられなかったものの、容疑者をかくまったとされた天満の町人63名が京都六条河原で磔にされた。
顕如はこの件で2月29日に浪人の逃亡を見過ごしていたことを理由に叱り咎められている(『言経卿記』)。 また、3月8日には容疑者の隠匿に関与した願得寺顕悟(がんとくじ けんご)は自害を言い渡された。

1591年(天正19年)には秀吉から京都の七条堀川に寺地を与えられて、京都に本願寺教団を再興。天正同年8月には長男の教如とともに本願寺(西本願寺)へ移住し、次男の顕尊は興正寺を再建。

1592年(天正20年11月24日)、顕如は50歳にて示寂。

顕如の死後

顕如が没した後、秀吉が顕如の三男・准如を12代宗主に命じた。しかし、信長との石山合戦で降伏後も籠城しつづけた長男・教如と 教団内部での対立状況は継続した。
秀吉の死後、徳川家康によって寺地の寄進がされると、1602年(慶長7年)には隠居していた長男・教如とそれを支持する勢力は独立して東本願寺を建立した。本願寺は教如の東本願寺(徳川派)と准如の西本願寺(豊臣派)に分裂することになった。

略年表

  • 1543年(天文12年)、誕生。
  • 1554年(天文23年)、父・証如の死去にともない、本願寺を継職。
  • 1557年(弘治3年)、三条公頼の三女・教光院如春尼を娶る。
  • 1570年(元亀元年)、野田城・福島城の戦いで三好三人衆について織田軍を攻撃。長島一向一揆を蜂起させる。
  • 1573年(元亀4年)、信長と和睦し、茶器を送る。
  • 1576年(天正4年)、天王寺の戦いで再び信長と交戦するも敗北。
  • 1580年(天正9年)、信長と和睦し、石山本願寺を退去して紀伊国に移る。長男・教如は信長と徹底抗戦を唱えたため、親子関係を絶つ。
  • 1582年(天正10年)、信長死後、教如と復縁。のちに台頭する秀吉と友好関係を保つ。
  • 1585年(天正13年)、摂津国・西成郡中島に移り、天満本願寺を建立して復興させる。
  • 1586年(天正14年)、秀吉の九州征伐に同行し、下関に滞在。
  • 1589年(天正17年)、秀吉から斯波義銀ら浪人の逃亡を見過ごしたことを咎められる。
  • 1591年(天正19年)、秀吉から京都に寺地を与えられ、本願寺教団を再興。長男・教如とともに本願寺(西本願寺)へ移住。
  • 1592年(天正20年)、死去。


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