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「島津忠恒」夫婦仲は最悪。義父の死後はやりたい放題!?

島津忠恒の肖像画
島津義弘の三男として生まれ、初代薩摩藩主となった島津忠恒。朝鮮出兵の際には数千の兵で大軍に勝利を収めたり、関ヶ原の戦い後には西軍であるにも関わらず領土を安堵されるなど優れた力を発揮。しかし、蹴鞠や酒色に明け暮れたり、妻を冷遇するなど負のイメージも併せ持つ。果たして忠恒とはどのような人物だったのか。

元々跡継ぎではなかった

1576年11月7日 島津義弘の三男として生まれる。本来家督相続の立場には無かったが、長男、次男ともに早死したため、1593年豊臣秀吉より後継者に指名されることに。1598年 朝鮮出兵の際(慶長の役)には父である義弘とともに、圧倒的戦力差のある明軍に対して勝利を収めるなど武勇に優れる面を見せている。

島津家最大の内乱

1599年、島津家最大の内乱と言われる庄内の乱が勃発する。当時より家康に取り入り、権勢を強めていた島津家筆頭家老の伊集院忠棟に叛意があるとして、同年3月9日、忠恒は京都伏見の島津低にて忠棟を呼び出し、これを斬殺する。 これを知った息子の伊集院忠真は島津氏に反旗を翻し、都之城を本城とした12の外城において籠城を決行。これを鎮めるため、忠恒は京より本国へ帰国。6月には鹿児島を出立し庄内攻めを開始した。この時、伊集院家の兵力は8000、忠恒軍が304万と圧倒的な兵力の差とされ、内戦はすぐに終わると見られていたが、予想以上の忠真の徹底抗戦に会い、忠恒は苦戦する。

それから約1年内乱は続いたが、最終的には1600年3月15日家康の調停の末降伏。島津家最大の内乱は終結した。しかし、その後も忠恒は忠真を警戒し、関ヶ原の戦い終結後の1602年10月2日、忠恒は上洛に際し忠真と狩りの最中、これを射殺。伊集院氏は滅亡する。

領地を安堵!関ヶ原の戦後処理交渉術!

関ヶ原の戦いで父の義弘は東軍に付くと約束していたものの、手違いから西軍での参加となる。多くの西軍大名が厳しい改易・減封に会う中、粘り強い交渉で1602年4月11日、家康より本領を安堵される。

再三に渡る家康からの上洛要請にも応じず、ひたすら交渉を続ける島津氏。60万石ほどを擁する島津氏が、僅か1500の兵しか動員しなかったことや、その兵すらもほとんど戦闘に参加していないこと、庄内の乱の後処理が忙しく上洛できないことなど、様々な情報を使い、結局は家康が折れ、本領は安堵。1602年12月28日に忠恒は本領安堵の謝意を述べるため上洛。これを持って関ヶ原の戦いの戦後処理は終了。なお、同年に島津家の家督を相続している。

徳川の時代となった1606年には、徳川家康から一字拝領して島津家久と改名し、その後の1609年には琉球に出兵、占領して従属国に。また、1613年には奄美群島を琉球に割譲させて薩摩藩の直轄地としている。 初代薩摩藩主として薩摩藩の礎を築いた。天寿を全うし、1638年に62歳で没した。

冷酷と評価される人物エピソード。妻の亀寿との関係

忠恒の人物像が描かれる上でよく引き合いに出されるのが、正妻・亀寿との関係にまつわるエピソードである。

亀寿は、先代当主・島津義久の娘で、元々は朝鮮出兵で戦死した島津保久の妻である。つまり忠恒とは従姉の関係に当たる。忠恒は亀寿との間に子を設けようとはせずに、将軍家から養子を貰おうとしたり、義父の義久が死去した途端にすぐ別居を始めたりしたという。そして極めつけは、義久が亡くなったことをきっかけに側室を8人ほど抱えて33人もの子を設けるという、ムゴいあてつけで亀寿を遠ざけたのである。

亀寿の死後には「あたし世の 雲かくれ行 神無月 しくるる袖の つはりもかな」(妻が亡くなり悲しい。袖が涙で濡れてしまうかと言われればそれほどじゃないが。。)という旨の和歌をわざわざ奥女中へ送ったというエピソードがある。
実際、亀寿の墓を建てなかったり、島津の歴代藩主で唯一正室の墓が隣にしていないこととなどから、忠恒がいかに彼女を冷遇していたかが伺える。


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