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「庄内の乱」島津氏の家中最大の内紛
──慶長4年(1599年)

島津義弘の三男で後継者となった島津忠恒が、島津家筆頭家老の伊集院忠棟を斬殺したことで勃発した島津家の内紛「庄内の乱」。 忠恒を殺害した理由は一体なんなのだろうか!?

合戦の背景

庄内の乱には、豊臣秀吉が関わっているとされている。秀吉は気に入った人物に対して他の者より多くの褒美を与える癖を持っており、伊集院家が主である島津忠恒より大きな都城を与えられた事で、島津家から反感を買う事になった。反感を持つ島津家の中に島津忠恒もおり、また伊集院忠棟は次期当主として後継者である忠恒ではなく、他の人物を次期当主に推していた事もあって、島津忠恒は伊集院忠棟を斬殺する。

伊集院忠棟の斬殺で完全に対立した島津家と伊集院家は主君と家臣という一見島津家の内紛に見えるが、伊集院家は豊臣秀吉からお墨付きを貰っていたため、書類上では豊臣家の家臣という扱いとなり、実際は戦国大名同士の戦という形になる。島津忠恒は斬殺をしてから内紛ではなく大名同士の戦になる事に気付き、焦ったのか寺へ入り謹慎をしていたのだが、徳川家康の「疑わしい家臣を処罰するのは問題ない」という一言を聞き、すぐに寺から戻ってきた。もちろん、伊集院家は当主を討たれた事や忠恒の態度に納得するわけがなく、伊集院忠棟の後を継いだ実子の伊集院忠真が中心となり、仇討ちを決意することになる。

合戦の経過

伊集院軍8千に対して島津軍3万と、両軍では大きな戦力の差があり、伊集院家は本城である都城での籠城戦に持ち込んだ。

【伊集院氏の居城・都之城と12の外城】

伊集院家が籠城戦を行っている事を知らせで聞いた島津忠恒は、すぐに徳川家康から許可を得て遠征先の鹿児島から戻り、都城攻略のための軍を起こした。この際、徳川家康は島津忠恒に伊集院忠真の討伐を許可しているが、和睦を促したものの失敗に終わっている。 戦力の差から伊集院家は程なく降伏するかと思われていたが、島津家に対する怒りで士気が上がっていた事や島津忠恒が行った攻略が思いの外上手くいかなかった事で戦況は膠着状態となった。

戦況が動き出したきっかけを作ったのも徳川家康で、膠着状態の戦況を知ると再び和睦を促すために使者を送ったのだ。一度目の和睦が失敗に終わった徳川家康は「忠真が降伏をすれば反抗を不問にする」という条件を付けた上で和睦を促した。庄内の乱のきっかけである伊集院忠棟の斬殺からちょうど1年後の慶長5年3月に伊集院忠真が降伏をした事で戦は終局を迎えることになる。

戦後

伊集院家は反乱の代償として、頴娃に移封された後、帖佐に移封となる。和睦を促した徳川家康との条件があったからの処置であり、本来であればもっと重い処置・処罰が行われるはずである。また、都城は島津忠恒軍を味方した都城の元の主である北郷家が復帰している。

庄内の乱では、伊集院忠真が加藤清正と連絡を取り合い、仇討ちの助力を得ようとした事が表沙汰になった。大名が他家の内紛に協力する事を快く思っていなかった徳川家康にまで知れ渡る事になったため、加藤清正には当分の間上洛禁止が言い渡され、加藤清正が会津討伐や関ヶ原の戦いに参加出来なかった原因となる。もしも、伊集院忠真と加藤清正が連絡を取り合っている事が徳川家康に知られる事なく加藤清正の助力を得られていた場合、庄内の乱だけではなく後の関ヶ原の戦いやその後の戦国時代に現在の史実とは異なる影響が出たのではないかという意見も多い。また、庄内の乱を解決しようとして毛利輝元が何らかの行動を起こしていたという事実も確認されている。

庄内の乱に勝利した島津忠恒だが、慶長7年に伊集院忠真と一緒に狩りに出掛けた際に事故に見せかけて殺害している。それには、庄内の乱が終局してから2年経っても伊集院忠真が怪しい動きをしていた、反旗を翻された怒りが治まっていなかった等の様々な説がある。
伊集院忠真の殺害に関しては「一度主君に背いた事から非情な判断・決断もやむを得ない」として徳川家康の内諾があったとするのが定説となっており、対外的にもそのように扱われている。


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