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「島津実久」の人物像・生涯とは?

分家の身でありながら島津家宗家の家督を狙い続けた島津実久。野心家だった実久は、宗家の島津勝久を担ぎ上げ、島津忠良・貴久父子と戦い続けた男だった──。

生まれてから勝久の守護職復帰まで

島津実久は1512年に島津忠興の子として生まれた。島津家は他の諸大名と比べると分家が多いが、島津実久もまた分家の1つで薩州家の次期当主だった。本来なら本家の家督を相続する可能性は少なかったが、島津家の宗家である第11代当主の島津忠昌が死去すると、第12代、第13代と若年で相次いで死ぬことになった。そして、第14代当主として守護職を島津勝久が継ぐことになった。彼は島津忠昌の三男だったが、17歳という若年で即位したので政権の基盤が非常に弱かった。そこに目をつけたのが島津実久だ。父から薩州家の家督を継いだ島津実久は勝久の妻の兄という立場から好き放題に権力を奮う。挙句の果てには1526年に家督を奪うために挙兵した。そこで島津勝久は妻とは離別して分家の薩摩島津家に助けを求めた。1527年に勝久は薩摩島津家の貴久を養子として迎えて家督を譲って隠居することになった。実久はこのことに激怒して、帖佐城の島津昌久や加治木城の伊地知重貞と連携して薩摩島津家の島津忠良を攻撃させた。また、実久はその間に島津忠良の別の所領を攻略していく。そうした中、家督を早々に譲ったことを後悔していた島津勝久の元に実久は同年6月に使者として川上忠克を派遣して守護職に復帰するように求めた。そこで勝久は養子縁組を解消して勝久は還俗して再び守護職に復帰した。これを受けて貴久は家臣とともに田布施に落ち延びることになった。

実質的な守護職になる

勝久が守護職に復帰してから島津家の分家と宗家が集まって和解を図ろうとするも失敗に終わり、むしろ島津忠良は実久に対抗するべく国人衆を味方につけるように画策した。一方の島津実久は勝久を傀儡として再び自身の思うがままに操った。1533年3月に島津忠良と島津貴久は実久と勝久への反攻を開始する。その戦いの最中に勝久は家臣が自分に指図をすることにいらだち始めて、一部の家臣と対立していく。また、実久は実質的な守護職として振舞うようになっていたが、このことにも嫌気が差してきた勝久は次第に実久とも敵対するようになった。山田有親をはじめとする島津宗家の重臣たちは勝久ではなく実久を頼るようになって勝久は孤立していく。1535年に島津実久は鹿児島にいる島津勝久を攻め込んで村落を放火した。街が炎上すると勝久は逃れた。この勝久を援助するために祁答院重武は北原氏とともに助勢するが、島津実久がこれを撃退して勝利を収めて鹿児島を占拠することに成功する。

忠良と戦い続けた結果、没落していく

実久は島津忠良と戦い続けて双方ともに疲弊していく。そんな中、1537年5月に忠久はたまらず川辺と加世田を引き換えに鹿児島、谷山、伊集院、吉田の領地を差し出して守護職として認めると説得にかかる。しかしながら、この交渉は実久には受け入れがたいものだったので、聞き入れず変わらず一進一退の攻防を続けることになった。そして2年後の1539年の紫原の戦いによって実久が大敗を喫してしまって出水に落ち延びる。この戦い以降、実久は敗戦が相次いで勢力を大きく減じてしまい、貴久に降伏する。

1545年3月には島津忠広と北郷忠相が島津貴久が守護職として復帰するように申し出ると、貴久はこれに納得して守護職として再び就任した。こうして島津実久は没落していくが、自身が本当の守護職だと自認していたため、出水を本拠地として死ぬまで忠良と貴久親子に戦いを挑みつつけることになる。1553年には起死回生を試みて室町幕府将軍の足利義輝に働きかけるために上洛して拝謁している。しかしながら、その京都からの帰りに病気を発症して7月7日に出水に戻ってくるが、約2週間後にそのまま病没してしまう。享年41歳の若さだった。


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