あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

島津義弘の家紋・家系図

家紋

島津家の家紋ははじめ "筆文字の十"が使用されていたが、江戸初期には "轡十字"が使用されるようになった。その背景にはキリスト教の十字架が思い浮かぶことにあったという。

島津家の家紋(筆文字の十)
筆文字の十(ふでもじのじゅう)

室町中期の家紋集『見聞諸家紋』に登場する島津家の紋。キリスト教宣教師はこの紋をみて驚いたという。関ヶ原の戦いを描いた史料『津軽家本』中に義弘の旗紋はこの紋を使用している。

島津家の家紋(轡十字)
轡十字(くつわじゅうじ)

江戸時代初期の記録に残る島津家の家紋。関ヶ原の戦いを描いた史料にある

島津家の家紋(島津牡丹)
島津牡丹(しまづぼたん)

公家の近衛氏が使用した近衛牡丹紋にちなんでいるという。島津氏と近衛氏は古くから繋がりがある。


家系図

島津義弘の父母

父は島津氏第15代当主・島津貴久。島津氏の分家出身でありながら、島津氏宗家の家督を継承して薩摩国を統一。
その後、これに反発した島津氏一門をまとめ上げ、名実ともに薩摩の守護として認められ、島津家の礎を築いた。

母は入来院氏11代当主・入来院重聡(いりきいん しげさと)の娘。入来院氏が島津忠良・貴久父子に臣従したのち、貴久に嫁いだ。

島津義弘の兄弟

同母兄弟に義久・歳久、異母弟に家久がいる。

義久(兄、よしひさ)
父・貴久の嫡男で島津氏の第16代当主。三州(薩摩国・大隅国・日向国)を統一するも、信長死後に台頭した秀吉に屈服した。
歳久(弟、としひさ)
義久・義弘の2人の兄に従い、多くの合戦で功をあげた。豊臣政権下では島津氏家臣・梅北国兼による秀吉への反乱(梅北一揆)が勃発する、黒幕とみなされて秀吉の怒りを買い、自害を余儀なくされた。
家久(異母弟、いえひさ)
沖田畷の戦い(1584年)で総大将として龍造寺氏を破り、九州征伐における戸次川の戦い(1586年)で豊臣連合軍を迎え討ち、大勝する功をあげた。しかし、豊臣政権に屈服した翌1587年に急死した。

島津義弘の妻子

正室は北郷忠孝の娘。継室に亀徳。側室に園田実明の娘がいる。

北郷忠孝の娘(正室)

島津氏の分家・北郷氏の出身で義弘との間に娘・御屋地をもうけたが、のちに離婚して北郷時久と再婚した。伯父に豊州家当主の島津忠親。
義弘との結婚後、義弘は忠親の養子となって日向の飫肥城に入ったが、のちに薩摩に帰国して養子縁組が解消された。このとき義弘と離婚となったとみられている。

  • 御屋地(娘)
    幼少期は北郷時久と再婚した母と北郷家で過ごした。北郷相久に嫁いだものの死別、のちに島津朝久に嫁いだ。
亀徳(継室)

肥後の相良氏第17代当主・相良晴広の娘。島津氏が肥後国に攻め入ったことで義弘と離縁になったとみられ、のちに相良氏家臣の上村長陸に嫁いだ。

園田実明の娘(側室)

島津氏家臣・園田実明(そのだ さねあき)の娘。義弘との間に5男1女をもうけた。

  • 鶴寿丸(長男)
    日向国・加久藤城で誕生したが、同城で夭折した。
  • 久保(次男、ひさやす)
    義弘の後継者とみられていたが、豊臣政権下の文禄の役(1592-93年)の最中に朝鮮で病死した。
  • 忠恒(三男、ただつね)
    初代薩摩藩主。島津家の家督を継ぎ、薩摩藩の基礎を固めた。
  • 万千代丸(四男)
    島津氏家臣・喜入久道(きいれ ひさみち)への養子入りが決まっていたが、夭折した。
  • 忠清(五男)
    分家の佐志島津家初代当主となったが、早世した。
  • 御下(娘)
    伊集院忠真に嫁ぎ、のちに島津久元に嫁いだ。

あわせて読みたい
斎藤道三の家紋・家系図
その他の将トップ / 美濃斎藤氏
加藤清正の家紋
豊臣秀吉トップ / 豊臣一族
豊臣秀吉の家紋・家系図
豊臣秀吉トップ / 豊臣一族
信長のルーツとは(家紋と家系図)
織田信長トップ / 織田一族
北条氏康の家紋
北条氏康トップ / 北条一族と家臣団
長宗我部元親の家紋・家系図
長宗我部元親トップ / 長宗我部一族と家臣団
黒田官兵衛の家紋
豊臣秀吉トップ / 豊臣家臣団
柴田勝家の家紋・家系図
織田信長トップ / 織田家臣団

 PAGE TOP