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島津義弘の名言・逸話まとめ

逸話・人物像

少年時代の日々

  • 兄・義久とともに伊作から加世田に赴いて、数日を祖父・日新斎と過ごし、また伊作へ戻るのが常だったという(『島津義弘公記』)。
    義弘は日々、祖父・日新斎から教えを受けていたのである。
  • 雪も降る厳しい冬の夜、勇武を好む四男・家久と申し合わせてわざと庭先に木製の槍や刀を晒し、夜明けになってそれを拾い上げると、雪を踏んでは燃えるような激しさで武術に励んだという(『島津義弘公記』)
  • 山野に遠路、狩猟にでかけては露営を張って野陣を習うなど、身心の鍛錬に励んだという。

祖父・日新斎(島津忠良)の教え

  • 祖父から「戦いはたとえ先に敗れたことがあっても、あとの閉じ目が肝要だ」との教えを受けている。ちなみに兄・義久には「大将たる者は固く腹を据えてみだりに動じないこと」と教わっている。
  • 祖父より、中国伝来の軍法について教えられ「六韜三略、孫呉」の道を究めたという。これらの書は前世期の中国における最古の兵書であり、日本では奈良時代から史料に記録されており、兵略はすべてこれに依ったという。
  • 祖父に「雄武英略をもって傑出する」と評されたという。
  • 木崎原の合戦で勝利した後、戦場跡に「六地蔵塔」を建て、敵味方区別なく、すべての戦没者のため冥福を祈り、大法要を営んでこれを懇ろに供養したという。これは祖父の教えであった。

一騎討ちの数々!

  • 22歳の義弘が初めて首級を挙げたときのことである(1556年)。
    島津軍が大隅国の蒲生氏の支城を攻めたとき、義弘は三尺の剣を抜いて城門を突破し、敵方の武者1人がかけ出てきたために一騎討ちとなった。このとき義弘はこれを組み伏せ、その敵将の首をとったという(『維新公御自記』)。 また、このとき城内に切り込んだ義弘は鎧に4、5か所の矢を受けており、鎧は貫通はしていなかったという。
  • 義弘が「纏頭の合戦」と呼ぶ菱刈氏との戦い(1557年)では、島津軍は敵が高山に陣を敷いていたため、矢石の乱射で進めなかった。これを無念に思った義弘は単騎で真っ先に攻め入ると、敵方の一人が前にでて互いに名乗りをあげ、一騎打ちとなった。
    義弘がこれを倒すと島津軍の士気が高まり、矢丸を犯して次々と押し寄せ、敵方に勝利したという。 このとき義弘は銃創を負って撤収した。
  • 木崎原の合戦(1572年)の直前にわずか300余の兵であった義弘は「合戦の勝敗は数の多少ではない。将兵が一丸となって勇気を奮って戦えば必ず勝てるのだ。このわしに命を預けよ!」と家臣を鼓舞したという。
  • 木崎原の合戦をひかえていた義弘は、馬の脚を折る夢をみたので占わせたところ、馬が脚を折れば徒歩、すなわち「克ち(=勝ち)」とでた。
    敵の大軍を崩して戦いが勝利に傾く中、義弘は敗走する敵将を単騎で追走し、一騎打ちとなってこれを討ち取ったのであった。
    実はこの一騎打ちのとき、義弘が槍をふるいやすいように、名愛馬・膝突き栗毛が前の膝を曲げた、と伝わる。
  • 義弘はのちに、九州の桶狭間と呼ばれた「木崎原合戦」の事について「誠に蟷螂(=カマキリ)の斧をもって竜車に向かう」ようなものと記している。

家臣を大切にする

  • 飯野城に在城していたころ、武士や庶民を自邸に招き、幼児を膝に抱くなどの心優しさがあったという。
  • 朝鮮出兵時、厳しい寒さの異境で日本軍に凍死者が続出したが、島津軍には1人もでなかった。これを不思議に思った加藤清正が島津の陣を訪ねると、屋内に長く大きな囲炉裏をもうけて薪を焚き、義弘や家臣らがうち混じって両方より足を差し入れて、これを囲んでいた。
    清正は兵士に「島津の陣は皆このようにしているのか?」と聞いた。その兵は「わが殿は毎夜、総陣を巡ること3回、諸陣に火暖が絶えないように命じられまする。ことに風雪の夜などは上下の者が一様に粥をすすって寒気を凌いでおります。義弘公とて何ら変わりありません。」と答えたという。
    これを聞いた清正は、義弘の主従分け隔てなく生活をともにする姿に強く心に響いたという。
  • 義弘の死後、殉死は禁止であったにも関わらず、13名もの家臣が義弘の後を追ったという。

その他の逸話・人物像

  • 関ヶ原合戦で敵中突破後、生き残った家臣らに薩摩国への帰還を勧められたが、義弘は人質として大坂にいる妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と言い、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)
  • 豊臣政権下で秀吉から拝領した播磨国の領地を管理する際、井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。義弘はその礼として井上に島津姓と家紋を授けたという。島津製作所の歴史には、この井上が島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先である、と記されている。


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