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【超入門】5分でわかる島津義弘

島津義弘イラスト
島津四兄弟の次男であり、4兄弟の中でも武人として傑出した評価を受け、「鬼島津」と恐れられた猛将・義弘の生涯とは?

義弘の出生と取り巻く環境

島津義弘は天文4年(1535年)、薩摩島津氏第15代当主の島津貴久と雪窓婦人との間に次男として生まれた。

父・貴久は島津家の礎を築いた「薩摩の英主」とたたえられる人物である。その子である義久、義弘、歳久、家久は皆一様に知略・武力に優れ仲も良く「島津四兄弟」と呼ばれ、島津氏を大きく発展させる要因となった。中でも義弘は祖父・忠良に「雄武英略を以て傑出す」と評され、若いころから戦場に出て武功を重ねていくのだ。

天文23年(1554年)、19歳のときに初陣を飾ると、弘治3年(1557年)には大隅国の蒲生氏を攻め、初めて首級を挙げた。この頃の島津家は、大隅半島をおさめる肝付氏と対立関係になり、肝付氏の要請を受けた日向の伊東氏や肥後の相良氏を巻き込んで南九州は戦乱のまっただ中である。特に日向伊東氏当主の伊東義祐とは、日向南部の権益を巡って争いを続けており、一進一退の状況にあった。

永禄9年(1566年)には、義弘の居城である飯野城を攻略するため、伊東義祐が三ツ山城を築城する。完成前に城を攻め落とすべく、義弘は兄・義久、弟・歳久と共に攻撃をしかけるが、逆襲にあい撤退することとなった。 その後も義弘留守中の飯野城を攻めさせるなど、伊東義祐とのにらみ合いは続いたが、この争いは「九州の関ヶ原」とも称された木崎原の戦いによって決着がつくこととなる。

九州での領土拡大

その木崎原の地での争いは元亀3年(1572年)に勃発。父・貴久の死去をきっかけに伊東義祐が3千の大軍で飯野地区へと攻め入ったことに始まる。

このときの義弘は37歳。飯野城を居城としていた義弘はこれを3百の兵で迎え撃った。
圧倒的な数的不利にも関わらず、冷静に計略を巡らせ、まずは伊東氏の援軍・相良氏をあざむくため、数多くの軍旗を立てて兵の人数が多いように見せかけた。そして、勢いに任せて押し寄せた伊東軍を島津得意の戦法「釣り野伏せ」で一気に包囲しせん滅する。 相良氏は義弘の計略により島津の援軍がすでに到着したと思い込んで引き返しており、伊東氏は総大将や有力な武将を失い、瀕死の体で領土へと戻ることになった。このときの義弘は、一騎打ちで相手の将を討ち取るなど、勇猛果敢な活躍を見せている。

この時代、九州は南は島津氏、北西は龍造寺氏、北東は大友氏が勢力を誇る「九州三国志」ともいうべき戦乱時代であった。 日向国を追われた伊東義祐は、キリシタン大名としても知られる大友宗麟を頼り、大友氏は伊東義祐の要請に応え、日向をキリシタンの国とする野望を胸に南下する。

こうして大友氏と島津氏が激突したのが天正6年(1578年)耳川の戦いである。義弘は当主である兄の義久、弟の家久と協力し前線で戦った。この戦いでも「釣り野伏せ」を用いて徹底して大友軍を叩き、大友宗麟を領土へと逃げ帰らせることに成功した。その後、島津氏は龍造寺氏も破り、九州の覇者となるべく勢力を拡大させていったのである。

しかし、島津氏の九州統一を阻んだのは、勢い盛んな後の天下人・豊臣秀吉であった。勢力を失って弱体化した大友氏は秀吉の傘下に下り、要請を受けた秀吉は九州平定軍を送ることに──。
そして天正15年(1587年)、日向国根白坂において両者は激突となった。(根白坂の戦い)

島津義久率いる島津軍の中で、義弘は自ら抜刀して前線で戦う獅子奮迅の活躍を見せたが、小早川隆景黒田長政など名だたる武将を擁する秀吉軍の前に敗走、義弘は飯野城に立てこもる。

結局、勢いに乗って攻め立ててくる敵を前に、兄の義久は剃髪して秀吉に降伏し、秀吉は大隅・薩摩を安堵することを約束。島津氏の九州統一はならず、広げた勢力を大きく減らすこととなったが、もともとの領地である薩摩を取り上げられることはなかった。
義弘は最後まで徹底抗戦を主張したが、最終的に兄・義久に説得されて従っており、そして秀吉からは大隅一国を所領として安堵され、大名に処されている。兄・義久から家督を譲られて島津氏の当主になったとされているが、諸説あって定かではない。秀吉が島津氏を分裂させるため、義久ではなく義弘を重く扱ったともいわれている。

朝鮮出兵で大活躍

朝鮮半島を手中におさめる野望を抱いた豊臣秀吉は朝鮮出兵を行う。豊臣氏に臣従していた島津氏は要請を受け、義弘も出兵することになった。文禄元年(1592年)の「文禄の役」、慶長2年(1597年)の「慶長の役」の2度の戦いに出兵した義弘だったが、特にその活躍が知られるのは後者の「慶長の役」である。

秀吉が死去した慶長3年(1598年)、秀吉の死を知った朝鮮・明の大軍は、義弘のいた泗川倭城を襲撃。敵の大軍は3万7千人前後とも、20万人ともいわれ、対する島津軍はわずか7千ほど。だが、義弘はこうした圧倒的に数的不利な状況にもかかわらず、鉄砲や大砲を用いて敵軍を混乱させ、島津軍の伝統的戦法「釣り野伏せ」を応用した戦法で包囲し、敵を撃破。総崩れとなる敵軍をわずか2人の犠牲で討ち取ったともいわれ、国内外に義弘の勇猛さを知らしめる歴史的な勝利をおさめたのだ。

徳川家康はこれを「前代未聞の大勝利」とたたえたという。また、義弘は敵軍から鬼石曼子(グイシーマンズ)と呼ばれ、恐れられていたともいわれている。この敗北を期に明軍が日本軍に和議を申し入れ、秀吉の死によって戦いの意義が失われた日本軍も撤退を決意することになった。

一方で、朝鮮水軍が講和に反対して海上を封鎖したため、帰途にあった小西行長が孤立状態に──。

義弘はここでも救援のために朝鮮水軍と一戦を交えて大活躍をしている。敵将を討ち取って朝鮮水軍に大きな打撃を与えた義弘らの軍は、最も危険とされる殿(しんがり)を務め、全軍を退却させて帰国したのである。朝鮮出兵では得た領土がなかったことから、多くの犠牲を払ったにも関わらず恩賞を受けられなかった大名の不満が噴出したが、そんな中、島津氏は唯一恩賞として5万石の知行を加増された。

このことからも義弘の活躍が国内に残っていた有力諸大名らに大きなインパクトを与えたことが容易に想像できるであろう。 義弘は翌慶長4年(1599年)に剃髪して仏門に入り、祖父・忠良の号「日新斎」にあやかって「惟新斎」と号した。

関ケ原の合戦「島津の退き口」で有名に

同年3月、義弘の子であり、兄・義久の娘と結婚して後継者となっていた島津忠恒が、京都伏見の島津邸で有力な家臣の伊集院忠棟を惨殺する事件が起きている。この事件には義弘や義久らが関わっていたともされるが、実情はハッキリしていない。これをきっかけに国許にいた伊集院忠棟の子・忠真が島津氏に背いて「庄内の乱」を起こし、薩摩領内で島津家中最大のお家騒動が起こることになった。

いったんは降伏、和解したと思われた両者であったが、後に忠恒は忠真を狩りに誘って射殺。これには徳川家康の内諾があったとされている。不穏な空気の中、豊臣氏に反する立場をとる兄の義久と、大阪にとどまり、豊臣氏に親しい立場をとる義弘の家臣の間で分裂、対立の動きがみられていた。

慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦に際し、この動きが義弘、及び島津氏の命運を決める遠因となるのである。

関ケ原の合戦の直前、家康は上杉討伐に向けて出陣。自分の留守中に京都で政変が起こった場合は伏見城を守るよう要請されていた義弘は、伏見城に向かい家康の家臣である鳥居元忠に合流しようとする。しかし、援軍要請の事実を知らなかった元忠は義弘を城に入れずに追い返してしまう。もともとは家康に味方し、東軍に加わろうとしていた義弘だが、伏見城が西軍によって落城し周囲を囲まれて孤立したこともあり、流されるように西軍に加わることを決める。

この前後、天下を分ける大きな決戦が起きることを予測し、その重要性が分かっていた義弘は、国許の兄・義久に何度も援軍を要請している。しかし、朝鮮出兵や庄内の乱の後処理で薩摩領内は中央の情勢に関わっている余裕がなく、何より義久自身が豊臣氏を好ましく思っていなかったこともあって、兵を送ることはなかった。 結果として義弘はたまたま伏見に参勤のため出向していた弟・家久の息子である島津豊久と共に両者の軍を合わせて1千5百人の手勢で参戦することになったのだ。

事実かどうかは定かでないが、一説に義弘の兵が少数だったことから西軍の石田三成らは島津隊を軽視したという。

美濃墨俣での撤退時、前線にいた島津隊は連絡をもらえずに取り残されたり、決戦前夜の軍議においても、義弘が主張する夜討ちが却下されたといい、これに島津軍の士気はふるわなかったと伝わる。

かくして関ケ原の戦い当日、義弘は三成隊と小西行長隊の間という、主力級の位置に配置されていたにも関わらず、積極的に兵を動かそうとはしなかったようだ。西軍有利で進んでいた戦いに一気に決着をつけるため、三成は家臣の八十島助左衛門を送って義弘に兵を動かすよう要請したが、このとき、八十島が無礼にも下馬に乗ったままだったため、義弘は激怒して追い返したという。その後、三成が自ら訪れて援軍を要請するも拒否し、結局兵を動かすことはなかった。

敵中突破という離れ業を実施!?

決戦は小早川秀秋の寝返りで西軍が総崩れとなり、事前に東軍と内通していた大名たちはいち早く撤退を開始。義弘率いる島津隊は退路をふさがれて敵の中に孤立してしまう。 切腹の覚悟を決めた義弘だったが、豊久に説得されて正面の伊勢街道を通って撤退することを決意した。しかし、伊勢街道の前には東軍が立ちふさがり、敵中を正面突破するしか道はない状態である。 このとき、東軍は勝利に湧き、壊滅状態になっていた西軍がよもや襲ってくるとは思っていなかったため、義弘率いる島津軍が死に物狂いで兵を進めてきたことに東軍の福島正則軍は驚いて大混乱。島津隊は続いて立ちふさがった小早川、井伊、本多忠勝隊をも突破し、家康本陣に迫ると、脇を抜けて伊勢街道へと入っていった。

家康の目の前まで迫ったこともあり井伊・本多・松平忠吉ら名だたる敵将がしつこく追撃。しかし、島津隊は捨て奸(すてがまり)と呼ばれる戦法を用いて、敵の追撃を遅らせ、義弘を逃げ延びさせることに成功。この戦法は、退路に数人の兵を留めて銃で敵の指揮官を狙い、槍を持って死ぬまで戦い、全滅すると次の数人が留まり、また死ぬまで戦うという壮絶な戦法であった。

このとき、甥の豊久や家老の長寿院盛淳ら有能な人材が義弘の身代わりとなった。一方で、徳川方は井伊直政が腕に重傷を負い、本多忠勝も落馬するなど東軍の損害も大きかったという。なお、正面突破を試みたときに300人いたとされる島津隊のうち、生きて戻ったのはわずか80名ほどだったともいわれている。

その後、義弘は薩摩への帰途の途中、同じく西軍に属していた立花宗成と遭遇。宗成にとって義弘は父の仇であったが、宗成は仇討ちをせず、共に協力して撤退している。この壮絶な退却戦は「島津の退き口」といわれ、義弘の名をさらに有名にしたのであった。

その後も勢力を維持し続けた島津氏

関ケ原合戦の後、義弘が西軍に属していたことで島津氏は危機に瀕していた。家康は軍を送って島津討伐を試みるが、義弘が謝罪の使者を送ったことから思いとどまり、和睦交渉に応じる。

義弘が交渉相手として頼ったのは「島津の退き口」で重傷を負わせた井伊直政だった。直政は恨みを抱くことなく交渉のために奔走したことから、義弘の武将としての才能を認めていたことがうかがわれる。
家康は和睦にあたって義弘の出頭と直接謝罪を条件にしたが、島津氏は本領安堵を認めることが先だとしてこれを拒否し、和睦交渉は2年にも及んだ。

島津氏はその間に家康の進軍に備えて軍備を強固なものにし、薩摩沖を航行中だった徳川氏と明との交易船団を襲うなど、脅しをかけるような強気な行動をとっている。東軍が勝利したとはいえ、情勢は不安定で家康の支配が完全なものではなかったため、最終的には家康が譲り、薩摩、大隅、日向の本領安堵を認めると同時に義弘を罰しないこととなる。このとき、東軍に与したのは義弘だけであり、兄・義久が兵を動かさなかったことが功を奏した。

なお、家康に内通して東軍に寝返った毛利氏が120万石から90万石にまで減封されている。一方、義弘の隊だけとはいえ、西軍に与して武器をもって戦った島津氏が領土を安堵されたのは、いかに家康が島津氏を恐れ、認めていたかを表しているともいえる。
晩年は大隅の加治木に隠居して元和5年(1619年)に85歳で死去した。義弘自身が固く禁じたにもかかわらず、13人の家臣が殉死したことからも、義弘が尊敬を集め慕われる武将であったことが分かるだろう。


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