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3分でわかる島津義弘の生涯

島津義弘の肖像画

島津義弘(しまづ よしひろ、1535-1619年)は薩摩国・島津氏の第17代当主で島津義久の弟。4兄弟の中でも武人として傑出した評価を受け、「鬼島津」の異名で知られている。

経歴

兄・義久が家督を継ぐとこれを補佐して、次々と武功をたてて島津氏の勢力拡大に貢献。

秀吉の九州征伐(1586-87年)では根白坂の戦いで自ら前線に立って戦ったとまで伝えられるほど奮戦したが、大軍に抗うすべもなく降伏した。その後の豊臣政権下では朝鮮出兵の命を受けて渡海し、功をあげる。

秀吉死後、関ヶ原の戦い(1600年)では少数の兵士を率いて西軍として参戦。西軍が総崩れになると、退路を遮断されて敵中に孤立してしまうが「島津の退き口」と言われる敵中突破の脱出劇を行ない、九州に帰還。
その後は家康との決戦に備えて軍備を増強すると同時に、和平交渉も展開。家康の命で一旦は島津討伐軍が押し寄せてくるものの、最終的には交戦せずに本領安堵を勝ち取った。

略年表

天文4年(1535年)
薩摩島津氏当主・島津貴久の次男として誕生。
天文23年(1554年)
岩剣城にて戦い、初陣を飾る。
永禄3年(1560年)
島津忠親の養子となり、飫肥城の守備につく。
永禄5年(1562年)
薩摩の本家が窮地に陥ったために帰還。義弘不在の飫肥城は陥落、養子縁組も白紙に。
永禄9年(1566年)
伊東義祐を攻めるも、重傷を負って撤退する。

島津氏の勢力拡大

元亀3年(1572年)
木崎原の戦いに従軍。
天正5年(1577年)
伊東義祐を日向から追放。
天正6年(1578年)
耳川の戦いに従軍。
天正13年(1585年)
肥後国の守護代として八代に入り、阿蘇氏を降伏させる。
天正15年(1587年)
九州征伐では根白坂の戦いで敗北。兄・義久が秀吉に降伏した後も徹底抗戦を主張したが、兄の懸命な説得により降伏。

豊臣政権下

天正16年(1588年)
上洛して秀吉から羽柴の名字と豊臣の本姓を賜る。
天正20年(1592年)
文禄の役に従軍。
慶長2年(1597年)
慶長の役に従軍し、武功をあげる。

秀吉の死後

慶長4年(1599年)
家中の内乱である庄内の乱が勃発。このときは大坂に留まった。
慶長5年(1600年)
関ヶ原では西軍へ参戦するも兵は動かさず。薩摩への退却戦「島津の退き口」でかろうじて帰国。
慶長7年(1602年)
家康によって島津本領安堵が決定される。
元和5年(1619年)
大隅国の加治木で死去。


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