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「耳川の戦い」島津、大友との一大決戦に大勝利!
──天正6年(1578年)

合戦の背景

耳川の戦いが起きた背景には、当時の大分県である豊後地方の名君、大友宗麟の縁故が関係している。

薩摩国(=現在の鹿児島県西部)の大名・島津義久と豊後国(=現在の大分県の大半)の大名・大友宗麟は、貿易の観点や本土の勢力から九州を守るという観点での相互利益で仲が良かった。しかし、天正5年(1577年)に日向国(=現在の宮崎県)の伊藤義祐が薩摩に進軍。当時の薩摩は兵の質だけでなく貿易拠点からの輸入によって力を蓄えていたことから、逆に返り討ちにしてしまう。

まさかの返り討ちでボロボロになった伊藤氏は大友宗麟を頼った。大友と伊藤は親世代の昔からの縁で結びついており、その伊藤の敗走にいくら相互利益の関係でも見過ごすことの出来ない事態となった。そして、伊藤を追いやったことで日向国をも手中にした島津は、さらに北上を開始したのだ。

元々九州制覇を考えていた大友宗麟としては、伊藤の敗走だけでなく、島津家の北上などは到底容認できるものではなかったのだろう。大友が自身の背後を守ってもらうという相互利益を破棄してでも倒したいと思うのに時間がかからなかった。
天正6年(1578年)には日向に3万とも4万ともいわれる大軍の兵と配下の田原親賢、田北鎮周らを派遣。これが耳川の戦いの始まりとなる。

合戦の経過

同年2月には大友軍の先鋒が日向国門川城に入城、さらに伊東氏の家臣団も先鋒に加わって日向国の国衆らへの調略を開始。やがて日向国の侵略を本格化させると、4月には松尾城に籠城した土持親成を攻略。これにより、大友勢は耳川以北の日向国を制圧したのであった。

これに島津氏も大友氏との決戦に向けて反撃を開始することに。6月には伊東家の残党が籠城する石ノ城を攻めるが、このときは 敗北して退却を余儀なくされた。たた、島津征久らが9月に伊東家の残党の籠る日向国の上野城等を、さらに北上して再び石ノ城を攻撃してこれを攻略している。

このように日向国で相対した布陣となった両陣営だが、その戦力は大友方が7に対して島津方が3といった程度であり、島津方が圧倒的に不利な状況であったようだ。そんな戦力差で出来ることは相手が疲弊するのを待つ籠城作戦である。10月には実際に島津方の高城が籠城作戦をとってかろうじて城を守り抜いている。

しかし、大友方も島津勢は籠城するしかないと理解しているため、薩摩からの物資や水道を次々とつぶしていった。しかし、貿易拠点として活動していた薩摩は独自のルートを確立しており、そのルートを通って食料と水を確保し守り切ることに成功。その間に準備を整えた島津義久の大軍勢が薩摩を出陣し、11月には財部城にまで進軍したのである。


この島津本軍の到着により、大友勢6に対して島津勢4の比率となって拮抗した。

戦力が拮抗したとなれば、あとは両軍の戦術家の優秀さが勝敗を分けることになる。田原親賢も田北鎮周も大友宗麟の増援があれば簡単に打ち破れると考えたため、その戦術は豊富な道具や兵の数を利用した強襲を選択した。その点、島津方は相手が強襲をかけてくる確率が高いことを念頭に置いて戦術を立てた。

そこで義久が選んだのは数の力ではなく、事前に入手しておいた立地条件を生かした陽動作戦であった。これにより、島津軍の作戦が実を結ぶことに。

大友宗麟の目標は九州の土台を築いた後、その戦力で本土へも進出することだが、これは慢心と同義であり、戦力が強いばかりに重要な地理条件に対しての対策を怠っていた。一方で貿易の関係性から地理条件の重要性を理解していた島津方は、直線的に進軍してくる大友宗麟と田原親賢、および田北鎮周の大軍を自分たちの有利な地形ポイントに誘導することに成功し、敵の大軍を割くことに成功。分断で残った戦力を確固撃破するために、その周辺を銃や火をまとった弓矢などで使って包囲し、せん滅することに成功したのだ。

大友方は数的有利を逆手に取られたことで、その地理条件を生かした戦術に対応できなくなって敗走した。島津方の圧勝に終わった。

戦後の影響

この戦いにより、大友方は重臣の田原親賢と田北鎮周を失った。さらには九州全土に大友の敗戦が伝わったことで、多くの国衆が大友氏から離反し、その勢力は大きく削がれることになった。


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