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「沖田畷の戦い」家久の奇策で龍造寺氏当主を討つ!
──天正12年3月(1584年)

合戦の背景

かつて九州では大友氏と島津氏の2大勢力が威勢をふるっていたが、天正6年(1578年)耳川の戦い以降、勢力図が大きく塗り替えられていくことになる。耳川で島津氏に大敗した大友氏は、国衆の離反を招くなどして衰退の一途をたどっていくが、それと入れ替えで勢力を一気に広げていったのが龍造寺氏である。

当主の龍造寺隆信は幼少時から寺に預けられて育ち、文武に秀でた優秀さで知られていたようだ。彼の祖父と父は主君の少弐氏に謀反の疑いをかけられて殺されてしまうが、隆信は逃れて還俗すると、やがて一族の力を借りて少弐氏から東肥前を奪い取る。主君に対する極端な仕打ちに一族内から反発を招くものの、周防から北九州一帯まで大きな勢力を誇った大内義隆の後ろ盾を得て、不満を抑え込むことに成功。そして、大内義隆の死後は豊後の大友宗麟の干渉と戦いながらも、有馬晴信ら国内勢力を着々と傘下に収め、耳川の戦いと同じ年には肥前国の統一を成し遂げているのだ。

情け容赦ない残忍な手法から肥前の熊と呼ばれ、敵味方の区別なく恐れられた隆信は、耳川の戦い以後は肥後国にまで食指を伸ばすようになる。一方、大友氏を破ってさらなる勢力拡大を目指す島津氏がこの事態を静観しているはずがなかった。

両者は肥後を舞台として小競り合いを繰り返したが、一旦は和睦を結ぶことに。肥前統一の過程で龍造寺隆信に帰順していた肥前島原の有馬晴信は、北上する島津氏の動きに呼応して天正12年(1584年)の3月、突如離反の動きを見せる。激怒した龍造寺隆信はすぐさま軍を差し向けるが、芳しくない戦況に業を煮やし、自ら3万の大軍を率いて島原を目指す。

対する島津氏は、戦上手で名高い四男の島津家久を総大将とする援軍を送ったが、わずか3千に過ぎなかった。有馬軍と合わせても1万にも満たず、総勢5万とも6万とも言われる規模に膨れ上がった龍造寺軍との戦力差は歴然としていた。

合戦の経過

圧倒的な大軍を相手に島津家久が用いたのは、釣り野伏せと呼ばれる島津氏が得意とする戦法だった。兵力を3つに分け、先鋒の部隊が一旦は攻め込んでから退却し、追ってくる敵を自陣深くまで引き込んだところで潜んでいた残り2隊が両側から襲い掛かり、三方から敵を包囲殲滅するという作戦である。しかも今回は現地の特殊な地形も有利に働いた。


畷とは田の中の畦道など縄状の細長い道を意味し、島津氏が陣を敷いた沖田畷は広い湿地帯で中央を一本の細長い通路が伸びているだけ、その幅は2、3人が並んでどうにか通れるほどしかなかった。一度にぶつかり合う人数が限られてしまい、戦力差は意味を成さない。

案の定、勢い込んで殺到する龍造寺軍は強い抵抗に遭って先詰まり状態になり、大混乱に陥った。遅々として進まない自軍に苛立った龍造寺隆信が激しく叱責したことが混乱に拍車をかけたとも言われている。しかし、いくらけしかけたところで折り重なる味方の死体を踏み越えて進まなければならない状況ではどうしようもなかった。そこに満を持した島津軍の伏兵が襲い掛かり、囮になって退却していた先鋒の部隊も反転して攻撃に移った。もはや戦いは一方的になり、少数の敵を侮って何の策もないまま自ら戦場に飛び込んだ龍造寺隆信もあっさり討たれてしまうと、後は悲惨な退却戦が残るだけだった。 大将が早い段階で討ち取られた合戦の珍しい例として、沖田畷の龍造寺隆信は桶狭間の今川義元と並んで戦国史に名を刻むこととなる。

戦後

敗軍はどうにか佐賀まで逃げ延びたものの、その後の龍造寺氏は衰退の一途を辿り、やがて家臣の鍋島氏が取って代わった。

龍造寺隆信は無理な進軍を命じたわけではなく、様子を見に行かせた部下が勘違いして間違った命令を伝えたとも言われている。隆信の最期は鉄砲で撃たれたとか切り殺されたとか諸説がある。酒色にふけって体力が衰え、輿に担がれて移動していたとも伝わる。隆信の首は島津氏が龍造寺側に返還しようとしたが突き返され、その後は行方知れずである。各地に首を埋めたとされる塚が残っている。

一方、島津氏はこれで九州統一に大きく前進したはずだったが、野望はほどなくして豊臣秀吉の九州征伐によって阻まれる運命となる。なお、この戦いの立役者であった島津家久は、九州征伐を受けた天正15年(1587年)に41歳という若さであっけなく病没している。


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