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「山本勘助」伝説となっていた甲斐武田家の軍師は実在していた?

山本勘助の肖像画
山本勘助といえば、戦国最強ともいわれた甲斐武田軍の参謀で稀代の軍師である。だが、彼の生涯の記録は武田家の軍学書『甲陽軍鑑』に頼っており、残念ながら江戸時代の作者による創作ともみられているようだ。

最強の軍師誕生!武田軍に仕えるまで

武田軍の軍師として長らく講談話などで愛されてきた山本勘助。彼の実態はよくわかってはいないが、近年の研究では実在した人物であったことが確認されている。以下、『甲陽軍鑑』を参考に彼の人物像を紹介しよう──。

彼の生年は明応2年(1493年)もしくは明応9年(1500年)ともいい、三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)が出生地とされている。名は「勘助」、諱は「晴幸」、出家後には「道鬼」を称したという。

26歳の時に武者修行に出て牢人となり諸国を巡っていた。その中で兵法を会得して城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めたと言われ、この時の経験がのちに軍師となる勘助を作る基になった。
武者修行中は中国、四国、九州、関東にまで足を延ばしていたようだが、37歳になった時に駿河の今川義元の元へと赴き、仕官を願っている。しかしこの仕官話はうまく進まなかったようで、色黒で異形な出で立ちで会ったことに加え、隻眼で足が不自由なことなどを理由に断られたらしい。

その後、勘助は失意を抱えたまま9年もの歳月を駿河で過ごしたという。しかし駿河で牢人暮らしを続ける勘助のもとに、思わぬところから仕官の誘いがかかった。天文12年(1543年)に駿河の隣国である武田信玄の重臣・板垣信方から知行100石で武田家に仕えるよう申し出があったのである。

この申し出に勘助は甲斐の国へと赴き、躑躅ヶ崎館で信玄と初めての対面を果たす。この対面ではしばし会話が行われ、信玄は諸国を巡り歩いていた勘助の見分の広さと兵法家としての知識の深さに感銘を受けたようだ。当初の予定であった知行100石を上回る200石が与えられたことからも信玄からの評価が高かったことが伺える。 こうして山本勘助は武田家に仕官することになった。

天下に才を示す!優れた軍略で信玄を護り抜く

武田軍は勘助が武田家に仕官した年に信濃国への侵攻を行っている。勘助はこの信濃侵攻に際して、さっそく9つの城を落とすなど大きな手柄を挙げたようだ。
天文15年(1546年)には北信濃に勢力を張る村上義清との戦となった。当初、勢いに乗る武田軍は村上軍を圧倒していたが、戸石城の攻略に手間取り大損害を出している。さらに村上義清が率いる本隊が到着したことにより、武田軍は壊滅的な損害を受け、総大将である信玄自身も負傷するという事態に陥っていた。この危機に際して勘助は村上勢の攻勢を二分するため、50騎を率いて勘助自身が敵の引付役となる陽動作戦を提案している。この作戦が功を奏し、村上軍の矛先が鈍っている間に武田軍は体勢を立て直すことに成功し、辛くも危機を脱することができた。体勢を立て直した武田軍は膠着状態を破って再び村上軍への攻勢を強め、最終的には村上軍に壊滅的な損害を与えている。この戦の見事さから勘助は「摩利支天のようだ」と評され、家中において大いに評価を高めることに成功した。

川中島での最期!

信濃へと深く進攻した武田軍はやがて越後の上杉謙信と対峙することになる。これに際して信玄は上杉軍対策の一環として勘助に海津城の築城を命じている。永禄4年(1561年)に川中島に出陣した上杉謙信は妻女山へと陣を構え海津城の攻略に取り掛かった。これに対して武田軍も海津城へと入場し、両軍はしばしにらみ合いを続ける状態となっている。すでに武田軍の軍師として重用されていた勘助は、この時、軍勢を二手に分け、妻女山に籠る上杉軍に夜襲を仕掛け、平地へと降りてきた上杉軍を本隊と挟撃する「啄木鳥戦法」を提案した。

信玄は当初、慎重な姿勢を見せていたが家臣の多くが主戦論を展開し、勘助もまた作戦を提案したことでついに決戦を決意することになる。しかし結論から言うと、この作戦は大失敗に終わる。武田軍が奇襲を用いて妻女山を急襲することは上杉謙信にすでに見抜かれており、別動隊が妻女山にたどり着いたころには、すでに上杉軍の陣中はもぬけの殻となっていた。そして武田軍の本陣が手薄になった頃を見計らって、上杉軍は総攻撃を仕掛けている。完全に虚を突かれたことに加え、軍を二分したことで武田軍は一気に劣勢に立たされることになった。猛攻を仕掛ける上杉軍に対して、信玄も鶴翼の陣を用いて対抗したが上杉軍の攻撃を抑えることができず、武田軍はこの作戦で多数の死傷者を出している。その中に勘助もいた。

作戦が裏目に出たことを悟った勘助は責任を感じたのか、敵陣深くへと突撃を開始し、敵を13名打ち取ったところで槍に突かれ、落馬したところで坂木磯八に打ち取られて絶命したと伝えられている。その後、妻女山へと向かっていた別動隊が合流し、上杉方を挟撃する形となったことで形勢が逆転した。勘助らの奮戦もあり、最終的には両者痛み分けとなり、両軍とも川中島から撤退をしている。これが世に名高い第四次川中島の戦いである。

山本勘助は長らく講談話の中に登場する架空の人物と考えられてきた。しかし、冒頭でも述べたように、近年になって新たな資料が次々と見つかったことで実在する人物だと考えられている。甲陽軍鑑の逸話はどこまで信ぴょう性があるのかは疑わしいが、少なくとも山本勘助といった軍師が活躍したことは間違いなさそうである。


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