武田信玄のルーツは平安時代にまでさかのぼる。
信玄といえば戦国最強の武田騎馬軍団で有名であるが、それは本拠地である甲斐国(山梨県)の地勢に起因するところが大きい。というのも甲斐国は早い時期から牧場が発展しており、名馬の産地だったからである。
特にその牧場の大部分が同国の巨摩郡(こまごおり)に集中していた。
武田一族は清和源氏の流れを汲んでおり、長元4年(1031年)3月には清和源氏の惣領・源頼信が甲斐守として着任した。以後、彼の子孫が名馬の産地・甲斐国巨摩郡を占拠するようになっていくのである。
頼信の子・頼義、孫の新羅三郎義光はいずれも関東地方に国守として就任しており、義光次男の義清のときには巨摩郡(こまごおり)の市河荘、青島荘の下司(=管理人)として土着するようになる。そして、義清と子の清光は巨摩郡北部の逸見郷で荘園を成立させていった。
この清光が甲斐源氏の祖といわれており、その子供たちが甲斐国を発祥として武田一族をはじめ多くの諸氏族を築いていくのである。
ちなみに上記のほか、二宮氏・河内氏・曾禰氏・奈胡氏なども清光の子が土着して祖となったようである。
甲斐武田氏の祖・武田信義の時代は源平の争乱期であった。
治承4年(1180年)4月に以仁王の令旨が出され、いわゆる源平合戦がはじまると、信義はこれに応じて信濃国伊那郡へ出兵し、のちに源頼朝と会って駿河国へも出兵して軍功を立てている。
信義は源平合戦で頼朝と協力関係にあった。しかし、頼朝はまもなくして信義の駿河守護を解任し、信義の嫡子・一条忠頼も殺害している。これは頼朝が、自らを脅かすほど強大な力となった甲斐源氏を恐れていたからという。
このため、武田氏は忠頼の弟・信光が跡を継いだ。信光は治承4年(1221年)で武功を立てて安芸国の守護に任命されている。
ところで鎌倉時代における甲斐武田氏の事績はよくわかっていないようである。この時代の甲斐守護はほとんどわかっておらず、鎌倉末期に信光の子孫・武田政義が就いていたかもしれないという推測レベルでしかないようである。
ここで鎌倉期の武田歴代当主と生没年(西暦)を一覧で記しておく。
南北朝期の武田氏は7代信武、8代信成、9代信春の三代にわたり、北朝方に属している。また永徳元-3年(1381-83年)ごろの甲斐守護は信春だったと伝わる(『円覚寺文書』)。
南北朝期が終わったあと、関東では室町幕府と鎌倉府の対立が起こり、甲斐国人衆らの台頭などもあって武田氏は大きな混乱の渦に巻き込まれることになる。
このころの武田歴代当主と生没年(西暦)を一覧で記しておく。
南北朝が統一されたあと、10代目信満の代には娘を関東管領・上杉氏憲(禅秀)に嫁いだことで戦乱に巻き込まれてしまう。
応永23年(1416年)に上杉氏憲(禅秀)が鎌倉府の足利持氏に対して反乱を起こしたため、これに従軍せざるを得なかったのである(上杉禅秀の乱)。
こうして信満は氏憲を支援したが、室町幕府の介入によって翌年には氏憲が敗北し、信満も鎌倉府の追討軍に追いつめられて最期は自害を余儀なくされたという。
この戦いは信満だけでなく、兄弟や子供にも影響があった。
信満死後の甲斐国は守護不在となったが、鎌倉府は甲斐国人の逸見氏を守護にしようと幕府へ要請するも、幕府は承認しなかった。これは幕府の一機関である鎌倉府が強大となり、政策などを巡って室町幕府と対立するようになっていたことにある。つまり、関東における守護の任命もその政策のひとつであった。
応永25年(1418年)には信元が幕府から甲斐守護に任じられて帰国したとみられている。
信元は武田の家督を信長に継がせようとしたが、信長は上杉禅秀の乱で鎌倉府に敵対したためにできず、信長の子・伊豆千代丸を嗣子とした。甲斐守護代の跡部氏らはこれに服従しなかったという。
こうした背景から伊豆千代丸に代わって甲斐守護を信重にしようと考えた幕府は、応永28年(1421年)に鎌倉府とそのことを交渉したようである。
また、一方で伊豆千代丸の父・信長は鎌倉府や跡部氏とたびたび戦ったようであり、永享5年(1433年)には駿府へ逃亡したという。
永享10年(1438年)にようやく信重が甲斐守護として帰国。また、同年には鎌倉府の足利持氏が関東管領の上杉憲実と決裂して攻めたことで、援軍にきた幕府軍に滅ぼされている。
以後、関東では幕府と鎌倉府の戦いを中心にひと足先に戦国時代に突入することになる。
この乱世の中で武田氏は「信重」→「信守」→「信昌」と継がれていくが、幕府と鎌倉府の争いは幕府側に味方したとみられている。なお、信昌の代には既に信濃の村上氏との戦いがはじまっていることが確かな史料で確認できている。
応仁元年(1467年)からは京を中心に応仁の乱が勃発するが、甲斐や信濃でも合戦があり、武田氏は信濃の大井氏と文明4年(1472年)に戦ったようである。ちなみに武田氏は東軍・細川方に与したとみられている。
その後、14代目信縄のときに家督争いが起きる。
明応元年(1492年)に信昌は家督を嫡男の信縄に譲って隠居したが、次第に次男・油川信恵への家督相続をのぞむようになったという。このため信縄と信恵が対立し、甲斐国衆もそれぞれを支持して深刻な家督争いに発展、さらには今川氏などの対外勢力との争いも同時に展開されたことで、甲斐国内に戦乱の嵐が吹き荒れたのである。
永正2年(1505年)に信昌、永正4年(1507年)に信縄、翌永正5年(1508年)に信恵が相次いで死没するが、その後も家督争いは続いた(『高白斎記』)。
信縄の死後は信直が跡を継ぎ、これに信恵の弟や子たちが対抗したが、永正7年(1510年)に信恵方の主だった人物を討ち取ってようやく決着をつけた信直が名実ともに家督後継者となった。
この信直がのちの武田信虎、すなわち信玄の父である。
武田信玄は先祖代々が使用した武田菱を使用し、それ以外の替紋を一切使用しなかった。
武田家の先祖代々の定紋。戦いの勝利の褒賞として与えられた甲冑に付いていた文様が、この家紋の形状の由来という。この他、一説には武田の "田" の文字を図案化したともいう。
武田菱の花模様版。こちらも定紋といえる。
信玄の肖像画にみられる。花菱の色反転版。