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武田信玄の名言・逸話まとめ

幼少期~信濃平定まで

敏捷・勤勉

勝千代(=信玄の幼名)は八歳から長禅寺に住み込んで手習学問をはじめたといい、生まれつき敏捷で、1字を読んで10字を知るほどであったという。

ある日、師僧から勉強のためとして一巻の書をわたされたが、勝千代は2~3日のうちに早くも読み終わったが、その内容は武将として必要な情報ではないとして、軍術に熟達できる書を求めた。
これに師僧は感心し、中国の七部、すなわち【 孫子・呉子・司馬法・尉繚子・三略・六韜・李衛公問対 】を出して読ませると、勝千代は喜び、昼夜を通してこれを学び、その理を徹底的に悟ったという。

元服と初陣(信玄16歳)

勝千代は天文5年(1536年)に元服して"晴信"と名乗り、同年末には父・信虎に従軍して信濃・海口城攻めで初陣を飾った。

このとき、大雪のせいで陥落させることができず、武田軍は撤退することを決定し、晴信は殿(しんがり)の任務を強く望んで任されることになった。
そして、味方の軍が撤退する中、晴信は敵が油断していると考え、海口城へ引き返して向かい、見事に陥落させて敵将の首を持ち帰って父に献上したという。(『名将言行録』)

乱取りを許可(信玄22歳)

信玄は天文11年(1542年)に信濃へ出兵した際、新しく武田の家臣となった者らを勇気づける目的で乱取りを許可したという。(『名将言行録』)

※乱取りというのは戦国時代に、合戦の後で兵士らが人や物を略奪した行為を指す。

信玄 vs 謙信

謙信の策を見抜く(信玄36歳)

弘治2年(1556年)上杉謙信と対峙したとき、信玄の斥候がやってきて上杉方は長陣だと報告した。信玄がその理由を問いただしたところ、斥候は謙信の陣には多くの薪が積んであるからだという。
これを聞いた信玄はすぐに使番に命じて家臣らに告げ知らせた。謙信の陣に火事が起こるから、絶対攻めてはならぬ、と。

のちの夜になって案の定、謙信の陣営から火事が起こった。信玄は櫓にのぼって様子をみていたところ、火事が鎮まると5~6千ほどの敵兵が出てきたという。

謙信は長陣どころか、早く決着をつけようとしていたのである。このことに人々は信玄の明察に恐れ入ったのであった。(『名将言行録』)

謙信の強がりを批判(信玄38歳)

永禄元年(1558年)の甲越和与のとき、信玄が馬から降りないことに憤った謙信は、雪水がでている川へ無理に馬を乗り入れ、多くの家臣らを水死させ、謙信自身も馬を乗り捨てて流木にしがみつき、ようやく陸にあがった。
これを聞いた信玄は、「謙信は合戦に関しては比類なき将だが、分別がない。なぜなら雪水の大河に乗り込むなら状況によっては死ぬのは当然であろう。馬を乗り捨てて岸にあがるくらいなら、川の水がひくのを待ってから渡ればよいことだ。
謙信は勇将だから自分の家臣からもそのように見られようとして、やったのであろう。
無用の強がりは上にたって国を背負う者のすることではない。ただ、30歳にもならぬため、あのようなのであろうが・・」と言ったという。(『名将言行録』)

前に若者、後に老功の士

信玄は越後の上杉謙信と対峙するとき、前に若者、後ろに老功の士を配置し、川を前にして上杉勢を待つ体制をとったという。
前陣の若者は後ろの老功の士に恥じぬ戦いをしようと、また、後陣の者も若者に負けじと勇むであろうということであり、謙信はこの様子をみて戦おうとしなかったという。(『名将言行録』)

謙信もおよばぬ部分

信玄は合戦において、5分の勝ちをもって上となし、7分を中とし、10を下としたという。
ある人が信玄にその理由をたずねると、「5分は今後に対して励みが生じ、7分は怠り心が生じ、10分はおごりが生じる」と。 このため、信玄はつねに6~7分の勝ちを越さなかった。

そして上杉謙信は、「いつも自分が信玄に及ばぬところはこうした部分なのだ」と言ったという(『名将言行録』)。

謙信の名馬

川中島の戦いの時に上杉謙信が名馬を乗り捨てたのを、家臣の長坂光堅が取って乗り、「さすがの謙信も馬を捨てたか」と言った。
これに信玄は激怒し、「馬がくたびれれば乗り換えるのは当然だ。ちょうど乗り換えた時に合戦が負ければ、中間(ちゅうげん、=武士の最下級)どもが馬を捨てて逃げるだろう。それを謙信が弱いと決めつけるとは全く考えのない申しようだ」と言ったという。(『名将言行録』)

相撲で決着?(信玄44歳)

信玄と謙信による川中島での戦いは勝敗が決まらなかったため、永禄7年(1564年)8月に双方から力士を一人ずつだして、その勝負で勝ったほうが川中島の地を得るということになった。

両軍が対峙する中で行われた相撲は上杉方の勝利に終わり、これを無念に思った武田方の千騎程の兵が馬の腹帯を締め直して、今にも討って出ようとすると、信玄がこれを抑えて「違約は士の恥とするところであり、君子に二言はない!川中島四郡は今日から上杉方に差上げる」と言って帰陣したという。(『名将言行録』)

駿河侵攻(今川攻め)

北条の陣を奪取(信玄49歳)

今川救援にきた北条氏康の陣営と興津河原で対陣したときのことである。

このときは正月でひどく浜風が吹き、耐えがたい寒さであった。信玄は家臣とともに酒を飲んで温まっていたところ、山上に陣を敷いていた北条方を攻め上り、あっさりと陣屋を破って武具や馬具を奪い取ったという。
これは信玄が、平地よりもさらに寒い山上にいる北条方は油断して山の麓で暖をとっているだろう、と考えて攻撃の命をだしたものであり、攻めのぼったときには案の定、北条の将は1人2人しかいなかったという。(『名将言行録』)

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今川氏真の旧臣を成敗(信玄49歳)

駿河侵攻の際、調略によって多くの今川方の武将が内通してきた。戦後、武田に寝返った今川旧臣らは武田方と事前に約束した褒美を求めてきた。これに対して信玄は、彼らを"不忠の者"としてことごとく成敗したという。(『名将言行録』)

今川氏真、小田原を退去(信玄49歳)

武田・徳川の侵攻で今川氏真は自領を失い、北条氏を頼って小田原に退去した。

信玄は今後のことを考えて氏真を小田原から追い出そうと策をほどこした。甲斐から小田原に2人の使者を順に出すことにし、1番目に原隼人・2番目に内藤昌豊とした。

そして小田原城下の人々にこう噂させた。「今度甲斐の使者・原隼人が小田原にきて氏真に切腹させるという内々の話をし、その次に内藤昌豊が来て切腹させるという段取りになっているそうだ。」と。

氏真は不安にかられているところ、実際に原隼人と内藤昌豊が順々にやってきたため、噂は本当だと思い込み、船で小田原から去っていったという。(『名将言行録』)

信玄の軍術

軽業の名人

あるとき、甲州に軽業の名人がやってきた。その者は城門を閉じておくとその上を飛び越してくるような手練者であった。 信玄はその名人を失策させようと、城門内にいばらを敷いたが、外から飛び込んできたその名人はまさにいばらに飛び降りようとしたが、これに気づくと外へ飛び戻ったといい、諸人はみな絶妙の技だと言った。
しかし、信玄は **このスゴ技はやがて武田氏を滅ぼすおそるべき武器になるかもしれぬ** と思い、家臣に命じてこの者を殺して未然に処理したのであった。

忍者?を派遣

信玄は商人を20人ほど諸国に派遣した。また、外科医師や牛馬を売買する伯楽(=馬の良否を見分ける人の意)を装い、手を替え品を替えながら1国に2人ずつ置いた。
このようにして信玄は他国の地形や風習、侵攻の可否等、知らないことがないほど精通していたという。

地形を理解

ある合戦ではじめて通る地があり、信玄は家臣たちに明日に手拭を持参するように命じた。家臣らはその意味がわからなかったが、とにかく命に従った。
翌日、進軍して途中で大河に行きあたったとき、川の流れに押されて脱落する者がでないよう、手拭を結び合わせて1本の長い綱を作って川を越えたという。これは信玄がかねてから出陣前に地形をよく調べていたからなせる技であった。

信玄の影武者

出陣のときにはいつも3人の影武者を連れており、そのおかげで身の危険を3度も逃れた。上杉謙信は使者を遣わせたものの、いつも一定せずにわからなかったという。(『名将言行録』)

"気"をみることができる

信玄は"気"をみる方法を学び、これに通暁していた。ある日、信濃で戦をしていたときに"悪気"があった。しかし、信玄はこれに構わず備えを固くし、列を整えて待ち構え、敵の虚をうかがって出撃して勝利した。

帰陣後、信玄は戦に勝利したことで馬場信春に「気は信じるべきではない」と話すと、信春から「悪気は敵味方どちらのものか判断できないのでは?」と問われ、これに「師伝によると味方のものだ」と答えた。
すると信春は「味方の悪気とお考えになり、いつも以上に気を引き締め、慎重であったからこそ、此度の戦は危なげなく勝利したのでございます。軍旅はただ心の締りを第一とすると、日頃お考えになっていたのはこのことでございます」と言ったという。

風林火山

信玄は孫子の旗を4本作った。俗に言う"風" "林" "火" "山"である。

信玄が第一の旗である ”風” を馬場・内藤・高坂らにみせると、馬場信春は「"風"は徐々に弱くなるものだから、軍旗にこの字を含めるのは不安」という意見であった。
すると信玄は「風の旗は先鋒隊にもたせるものだ。先鋒は速いことを良しとする。そして、わしが率いる本隊にその風のこころがけを継がせよう」と言ったので、馬場は信玄が二段構えの「二の身の勝」の戦法を会得したことを理解したという。

信玄の家中統制術

迷信をぶち壊す

信玄が出陣したあるとき、鳩が一羽、庭前の木の上にきた。家臣たちはこれをみると口々にささやいて喜んだ。信玄がその理由を問うと、鳩が木にくるときは合戦に大勝しないことはなく、めでたいしきたりだと言う。
これを聞いた信玄は猟銃ですぐさまその鳩を撃ち落としたという。

これは鳩がもし来なかった場合、家臣らに恐れる心が芽生えて合戦に悪影響がでるかもしれない、と信玄が心配してのことであった。

若者の取立て

信玄は若者を取り立てる際、その者がよくわからない間は金銀や衣類などを事欠かないように与えておき、心底見定めてからようやく領地を与えたという。それは、一旦与えてしまった領地をその者がよくないとして取り上げたとしたら、その者に疵がつき、さらに自分も目利きがないことにもなるからだという。(『名将言行録』)

人材の見分け方・使い方を説く

『甲陽軍艦』 品第30に、信玄が山本勘助と家臣について論じているので、その中の一文を以下に紹介する。

  • 人のつかひやうは、人をばつかはず、わざをつかふぞ。又た政道いたすも、わざをいたすぞ。あしきわざの、なきごとくに、人をつかへばこそ、心ちはよけれ。

    「(信玄の)人の使い様は、人ではなく、人の能力を使うのである。また、政治を行なうにあたっても、能力を生かす事である。能力を生かすように人を使ってこそ、満足できるのである。」という意味。『名将言行録』にも取り上げられている。

  • 人の見様は、無心懸の者は無案内なり。無案内の者はぶせんさく也。ぶせんさく成者は必ず慮外なり。慮外なる者は必ず過言を申。過言申者は必ず奢り易く、めりやすし。奢りやすく、めりやすき者は首尾不合なり。首尾不合なる者は必ず恥をしらず。恥をしらざる者は何に付ても、皆仕るわざ、あしき物なり。

    「(信玄の)人の見方は、まず信念を持たぬ物は向上心がない。向上心がない者は研究心がない。研究心がない者は必ず不当な失言をする。失言する者は必ずのぼせあがって沈む。そのような者は行動が一貫しておらず、必ず恥をわきまえない。恥知らずには何をさせても役立たずである。」といった意味。

陰日向

信玄は家中の者に対して陰日向がないように務めたという。
忠節忠功の武士に対して、身分には関係なく、本人の手柄に応じて感状・恩賞を与え、ひいきや取り成しをしても少しも役には立たなかった。これにより、人々の陰日向は全くなかったという。(『甲陽軍艦』 品第39)

感状の出し方

信玄は手柄をたてた家中の者を公正に評価するため、「合戦の手柄について申しあげたいことがあれば、直接に書面で申し上げるように」とお触れしたという。(『甲陽軍艦』 品第39)

要害山城で家臣を教育

信玄は石水寺要害城(要害山城)で家臣らと雑談し、その中で部下を教育したという。以下にいくつか名言として挙げよう(『甲陽軍艦』 品第40)。

  • 人は只、我したき事をせずして、いやと思ふことを仕るならば、分々躰々全身をもつべし

    「人間はただ、自分がしたいことをせず、嫌と思うことをするならば、それぞれの身分に応じて、身を全うすることができるのである。」という意味。

  • 渋柿をきりて、木練をつぐは、小身成者のことわざなり。中身よりうへの侍、殊に国持人は、猶以て渋柿にて、其用所達すること多し。但徳多しと申て、つぎてある木練を、切るにはあらず。一切の仕置、かくの分なるべきかと、のたまふなり。

    「渋柿の木を切って木練(甘柿)を継ぐというのは小身の者のすることである。中以上の武士、とりわけ国持大名にあっては、渋柿は渋柿として役に立つものなのである。ただし、渋柿がよいからといって、継いである甘柿を切る必要はない。
    すべてのやり方はこのようなものである」という意味。

組織に関する五ヶ条

信玄が家臣団を統率するために定めた原則・5ヶ条が『甲陽軍艦』 品第41に有るので以下に紹介する。

  • 大将、人を能く目利して、其奉公人得物を見知て、諸役をおおせつけらるる事。

    「大将は部下の人柄をよくみて、その部下の得意とする能力を知り、様々な任務に配置すること。」といった意味。

  • 侍の事は、申に及ばず、大小上下ともに、武士たらん者の手柄、上中下をよくわけて、又無手柄をも上中下をよく分けて、鏡にて物の見ゆる様に、大将の私しなく、なさるる事。

    「大将は、士分の者は元より、その他の大小上下の諸奉公人も含め、武士たちを手柄の上中下でよく分類、また手柄のない者も同様によく分類し、これを鏡に映るように正確に公正に評価すること。」といった意味。

  • 右の兵手柄のうへ、恩をあたへ給ふこと。手柄上中下のごとくくだされ、同言葉の情も、其手柄に随て、大将のなさるべく候事。

    「右の手柄を立てた武士に恩賞を与えるには、手柄の上中下にふさわしく与え、言葉でねぎらう場合も、その手柄の程度に応じて行なうこと。」といった意味。

  • 大将慈悲を、なさるべき儀、肝要なり。

    「大将は、慈悲の心をもつことが肝心である。」といった意味。

  • 大将のいかり給ふ事、余りになければ、奉公人油断ある物なり。油断あれば、自然に分別ある人も背き、上下共に費えなり。又其いかりにも、奉公人科の、上中下によつてあそばし、又ゆるす事も、あるべき事。是法度のもと也。

    「大将が余りにも怒ることがなければ、奉公人は油断するものである。油断は思慮のある人も法度に背き、上下ともに損失を受ける。また、怒りを示す場合にも奉公人の罪の上中下にふさわしくし、許すことも必要である。これが法度の基礎である。」といった意味。

人は城、人は石垣・・・

人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、あだは敵なり

「人は城、石垣、堀であり、情けは味方であり、あだは敵だと思え。」といった意味。如何に城・石垣・堀が堅固だとしても、それを守るのは結局は人であり、人が城、石垣、堀以上の役割を果たすということである。

合戦の心がけ三ヶ条

信玄は合戦にあたり、「1.敵の状況を把握すること、2.勝負は10中6・7分がよいこと、3.40歳までは勝ち、40過ぎからは負けぬように」の三ヶ条が大切だと説いている。詳細は以下(『甲陽軍艦』 品第39)。

  • 敵の強い点弱い点を知ること。また、その国の大河、山坂・財力の状態、家中の武士らの行儀作法、剛の者が大身・小身のうちにどれだけいるか、などを味方の指揮にあたる者によく知らせておくこと。

  • 合戦における勝敗は、10のものならば6分か7分、敵を破ればそれで十分な勝利であり、とりわけ大きな合戦ではこの点がとくに重要である。
    8分の勝利はすでに危険であり、9、10分の勝利は味方が大敗を喫する元となる。

  • 合戦の心得として、40歳以前は勝つように、40歳から先には負けぬように。
    ただし、20歳前後のころでも、自分より小身な敵に対しては負けなければよいのであり、勝ちすごしてはならない。大敵に対しては、なおのことである。十分な思慮判断のもとに追い詰め、圧力を加え、将来の勝利を第一に考えて気長く対処していくべきだ。

大敵との戦いの前

大敵との戦いのとき、信玄は合戦はしないと言って、家臣らの戦気をそそり励ました。家臣が開戦を勧めてもなおそれを抑え、戦気が高まったところで開戦に踏み切り、普段の戦より何倍も士気を高めたという。(『名将言行録』)

家臣を試す

信玄は治水工事や鷹狩りなどで出かけた際、村々の有様や山々の竹や木々の茂り具合などをよく見覚え、これを知らないフリをして家中の者にたずねたという。
これに答える者に対し、信玄はどのように見覚えたのかなど、さらに詳細にたずねたといい、こうした質問によく答える者を他国への視察の使者にしたり、国境の様子を見るために派遣したりしたという。(『甲陽軍艦』 品第53)


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