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武田信虎

武田信玄の父として知られ、家中の混乱を制して甲斐統一をも成し遂げた武田信虎。しかし、 ”悪逆無道”ゆえに国外追放という憂き目に遭い、道半ばにして戦国大名としての人生が閉ざされてしまう。

本記事では信虎の生涯を通して、その実像を明らかにしたい。

家督相続と武田家中の統一

明応3年(1494年)正月、武田信縄の嫡男として誕生した信虎(初名は信直)。

この当時、武田家中は内訌によって混乱状態にあった。
きっかけは、信虎の祖父・信昌が隠居した際に、家督を嫡男の信縄ではなく、信縄の異母弟である油川信恵に譲ろうとしたことにあった。

「信縄 vs 信昌・信恵」の対立は、武田家中だけでなく、対外勢力や甲斐国内の国衆をも巻き込んだ内乱だったようだ。

信虎の父・信縄は、伊豆を追放された堀越公方足利茶々丸を保護したり、大森氏の生き残りを匿うなどしたため、彼らと敵対していた伊勢宗瑞(のちの北条早雲)や今川氏親らが信昌・信恵方に味方するなど、対外勢力の侵攻を招いていたのである。

明応7年(1498)には明応の大地震が発生、これを「天罰」と考えた両者は一時的に和睦し、家督は信縄が継承することになった。
信虎5歳のときである。

永正2年(1505)には、隠居していた祖父・信昌が病没し、父・信縄が名実ともに甲斐守護の地位を確立するが、その信縄も2年後の永正4年(1507)に病死してしまった。
このため、信虎が14歳という若さで武田家の家督を継ぐことになったが、これに乗じて家督を狙う信恵父子が背き、信恵の弟・岩手縄満や郡内の小山田弥太郎らが反旗を翻した。

しかし、翌永正5年(1508)10月、信虎は信恵父子や岩手縄美らを倒し、さらに続けて12月には小山田弥太郎らを討ち取って家督を守っている。

なお、敗北した信恵派の一部が北条早雲を頼って伊豆へ逃れており(『勝山記』ほか)、以後、当主となった信虎の甲斐統一の戦いがはじまる。

甲斐国衆を次々と従属下に

家中を統一した後も、武田氏と郡内の小山田氏との抗争は続いていた。

小山田氏・大井氏を従属下に

信虎は、永正6年(1509)から郡内へ侵攻しており、翌永正7年(1510)まで戦いは及んだが、同年の春頃には、小山田氏との和睦が成立したという。
このとき、信虎は妹を小山田越中守信有に嫁がせ、武田と小山田氏とが姻戚関係になったとみられる。

信虎は永正12年(1515)頃から西の大井氏を攻めている。

大井氏は、武田氏の庶流で南北朝期に武田信武の二男、または三男が甲斐国巨摩郡大井荘を領有したのにはじまる。
武田氏と敵対関係となった理由ははっきりしないが、大井氏は駿河の今川氏と友好関係にあったらしい。

実際、大井信達から援軍要請を受けた今川氏親は、同年に兵を動かして武田方の属城・勝山城を占拠している。
一方で信虎は大井氏の本拠・上野城を攻めたものの、惨敗して多大な損害を被る結果となった。

大井・今川連合との抗争は永正14年(1517)まで続いたが、今川の属城である三河国の吉田城を陥落させると、形成優位となり、 同年3月にはついに今川氏からの申し入れで和睦成立となった。
このとき、信虎は大井信達の娘を正室に迎えることになった。

甲府を本拠に

永正16年(1519)には本拠を川田館(笛吹市石和町)から甲府の躑躅ヶ崎館に移している。
信虎はこのとき、従属下に置いた国衆への統制を強めるため、彼らを躑躅ヶ崎館の周辺に強制的に居住させたが、これに反発する者が続出したようだ。

永正17年(1520)には、有力国衆の栗原・大井・今井の三氏が城下を退いて、自分たちの城に籠城してしまったという。(『勝山記』)

栗原氏は大井氏と同じように武田氏の庶流にあたり、東郡栗原郷(山梨市)に居住したのがはじまりという。 また、大井氏は先に記した大井信達父子であり、今井氏とは密接な姻戚関係にあったようだ。

同年6月、信虎は彼らを討伐するために兵を出すと、まもなく栗原・大井・今井の三氏を鎮圧しており、その直後から躑躅ヶ崎館の北に要害山城の普請を開始している。なお、信虎は同城や躑躅ヶ崎館のほか、城下町の建設にも着手している。

国外進出と甲斐統一

大永元年(1521)には、信虎は従五位下に叙せられ、同時に"信虎"に改名したものとみられるが、この年は信虎にとって一大危機を迎える。

今川勢の甲府襲撃と信玄の誕生

同年2月には、福島氏を主力とする今川軍が甲斐へ進出して河内を占領し、さらには甲府への侵略をもくろんでいた。
信虎は8月に河内を攻めるなどして交戦するが、9月16日には福島正成率いる今川方の大軍が大挙し、大井氏の属城・富田城を落とすと、ここを前衛基地とした。

信虎は、この非常事態に懐妊中の大井夫人を積翠寺要害山城に避難させたといい、その後、今川方が甲府に迫り、10月16日に飯田河原(甲府市飯田町の荒川河原)で両軍が激突となった。
この合戦で、信虎は勝利を収めて一旦は危機を脱出し、11月3日に大井夫人は無事に男児を生んだ。
この子がのちの武田信玄である。

11月23日には上条河原(中巨摩郡敷島町の荒川河原)で、武田と今川の2度目の激突があり、武田方は大将・福島正成ほか敵兵600余を討ち取り、大勝利となったのである。
今川方の残りの兵士は富田城に敗走したが、信虎は翌大永2年(1522)正月にこれも降伏させ、今川方を駿河へ追い払ったのであった。

戦勝後、国内が小康状態になったところで、信虎は同年中に家臣らお供を引き連れ、河内の身延山久遠寺や郡内の富士を参詣している。

北条勢との戦い

今川勢を国内から追い出したことで、信虎の国内での地位は強固となり、信虎に従属下する国衆も一層増えた。

こうした中、大永3年(1523)伊勢氏綱が北条姓を名乗り、ついに扇谷上杉氏と敵対関係となると、大永4年(1524)正月には武蔵国への侵略をはじめ、江戸城を奪取した。

扇谷上杉氏と同盟関係にあった信虎は、これを支援するために2月には出陣して相模国津久井郡へ侵入し、北条方と交戦している。
翌3月には道を転じて武蔵国秩父へ進出し、関東管領で山内上杉氏の上杉憲房と対面。さらに7月には武蔵国岩槻城・太田資高を攻めている。
同年末まで氏綱は一旦、扇谷上杉氏や信虎と和睦している。

しかし、和睦はたちまち破棄され、大永5年(1525)2月に氏綱は岩槻城を奪還しており、信虎は山内上杉氏とともに相模国津久井城を攻撃している。

信虎は大永6年(1526)にも甲斐・駿河国境の梨の木平で北条勢力と戦って大勝している。

なお、同年には信虎が上洛しているとの風聞が流れたようだ(『勝山記』)。これはおそらく12代将軍義晴から上洛命令があったことと思われる。

というのも、翌大永7年(1527)、中央では将軍義晴と細川高国が三好元長との戦いに敗れて京を追われ、再挙を図っており、同年6月に将軍義晴は、山内上杉氏・木曾氏・諏訪氏の3名に対して信虎上洛に協力する旨を下命しているからである。

一方、同じころに駿河では今川氏親が没し、嫡男の氏輝が家督を継いだ。信虎はこれを機に今川氏と和睦して南方の脅威を取り除き、信濃侵攻を本格化させることになる。

信濃侵攻と甲斐の統一

信虎は享禄元年(1528)から諏訪郡への侵略を開始して、諏訪頼満・頼隆父子と戦っており、これ以後、諏訪氏とはたびたび交戦する間柄となる。

享禄3年(1530)正月には、扇谷上杉の上杉朝興が北条討伐に向けて出陣したため、信虎は小山田越中守信有の軍勢を派遣して朝興救援に向かわせた。しかし、小山田の軍勢は甲相国境に近い八坪坂で北条勢と戦って大敗を喫したらしい(『勝山記』ほか)。

上杉朝興は信虎を拠り所にして関係強化を図り、山内上杉氏の上杉憲房の後室を信虎の側室に入れるなどしたが、これを良しとしない武田家臣も多かったようであり、翌享禄4年(1531)正月には、栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌らが信虎に背いて甲府を去り、甲府北部の山地御岳山中にたて籠もった。

さらには信濃国の諏訪頼満もこれに呼応して韮崎へ侵攻を開始すると、大井信業も離反するなど、大きな反乱へと発展したのである。 しかし、信虎は同年2月に大井信業、今井尾張守らを討つと(『一蓮寺過去帳」)、続けて4月12日(3月12日説もある)には韮崎郊外の河原辺で諏訪・甲斐国衆連合を迎撃して栗原兵庫ら800余人を討ち取り、これを鎮圧することに成功している。

今井信元は天文元年(1532)に入っても、浦の城(北巨摩郡須玉町江草)に籠もって信虎に抵抗したが、9月にはついに降伏して城を明け渡し、信虎に帰属することになった。

こうしてついに、信虎の甲斐統一が成されたのである。

今川義元と組む「甲駿同盟」

さて、対外関係だが、信虎は天文2年(1533)に朝興の娘を嫡男の勝千代(=のちの信玄)に娶らせ、扇谷上杉氏との友好関係をさらに強めようとしている。
一方、今川氏とも和睦状態が続いていたが、天文4年(1535)には今川氏輝と不和になり、甲斐・駿河国境で再び一戦を交えることになった。このとき、今川と姻戚関係にある北条勢が援軍にきたため、信虎は大敗して家臣の小山田越中守信有や弟の勝沼信友らを失っている。

その後、信虎は扇谷上杉氏の牽制によって難を逃れたが、戦後まもなく信濃の諏訪頼満と和睦している。これは今後の今川・北条の両者との戦いに備えたものであろう。

甲駿同盟の成立

こうした中、翌天文5年(1536)3月に今川氏では、当主の氏輝と弟の彦五郎が同日に亡くなるという政変が起きた。

この事件は偶然なのか陰謀なのかはわかっていないが、これにより氏輝の弟、栴岳承芳(のちの今川義元)と玄広恵探との間で家督争いが勃発することになったのだ。(花蔵の乱)

栴岳承芳には多くの今川重臣ほか、北条氏も支持しており、結果的に玄広恵探は自害に追い込まれて承芳派の勝利で決着がついた。
なお、信虎も承芳を支持したようであり、恵探派の前島一門は甲府へ逃れてきた際に彼らに切腹を命じている。ただ、このときに信虎の処置に反対した一国の奉行衆がことごとく他国へ退去したようだ。

こうして今川義元が家督を継ぐことになると、義元の斡旋で信玄に公家・三条公頼の娘を娶らせ、翌天文6年(1537)2月には信虎の長女・定恵院(=信玄の姉)を義元の正室に嫁がせ、武田・今川間で同盟が結ばれることになったのである。(甲駿同盟)

信濃経略に専念

信虎は甲駿同盟によって南を気にすることなく、北の信濃経略に専念できる体制が整った。

しかし、一方で北条氏綱がこの同盟に激怒し、今川氏と断交して同年2月から駿河今川領へ攻め込むと、富士川以東の駿東・富士2郡を押さえ、さらに興津(=静岡市)あたりまで焼き払ったため、信虎は救援のために須走口に出陣して一戦を交えている。
以後、信虎は北条勢と天文8年(1539)まで衝突を繰り返すことになるが、やがて小康状態となる。

同年末には諏訪頼満が没し、頼重が後継者となったが、翌天文9年(1540)、信虎はこれを機に娘・繭々御料人を頼重に嫁がせて諏訪氏と同盟を締結し、信濃佐久郡の侵略を進めていった。
ちなみに、その勢いは1日で城を36も攻め落とすという凄まじさだったとも伝わる。

天文10年(1541)5月には、諏訪頼重や埴科郡の村上義清と連合して、小県郡の海野氏や禰津氏ら滋野一族を攻め、尾山(小県郡丸子町)や海野平(同郡東部町) を陥落させ、海野棟綱や真田幸隆らを上野国へ追いやっている。

信虎はまもなく帰国の途につくが、これが国主として最期の戦いになろうとは夢にも思わなかったであろう。

国外追放とその後

帰国後、信虎は今川義元に会うため、翌6月14日に駿河国へ向かったが、帰るところで国境が封鎖されており、甲府へ戻ることはできなかった。

--クーデター?

この国境封鎖は、嫡男晴信(=信玄)と一部の重臣によるものであった。つまり、信虎は実の子と重臣らによって追放されてしまったのである。

追放の理由は様々な説や推察があるが、一般的には「信虎の領国統治の失敗」や「信玄と信虎との確執」があげられている。

具体的なことは以下のようなことである。

  • 信虎は頻繁に戦争を重ね、家臣らを酷使し、彼らの生活を圧迫していた。
  • さらに天災が加わり、飢饉・疫病の流行などを招いた。
  • こうしたことで家臣団や領民の心が離れた。
  • 一方で信玄を疎み、廃嫡しようとまでした。
  • 信玄とは性格や政策面で相容れなかった

上述が事実かどうか定かでないが、一貫しているのは、信虎が ”悪者” として伝わっている点である。

追放後の暮らしは?

追放後の天文12年(1543)6月には、上洛して「京都南方」を遊覧し、高野山引導院を参詣、8月には奈良へ赴いて、同月15日に駿河へ戻っている。
以後もたびたび上洛が確認されているようであり、『言継卿記』によれば、公家の山科言継が永禄元年(1558)から例年に渡って信虎への年始挨拶などを行っている。

永禄3年(1560)には、義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ、後を継いだ今川氏真が没落の過程をたどっていくと、信虎は今川滅亡を予見して駿河を調略で奪おうとしたが、庵原安房守の才覚によって追い出されたらしく、その後上方へ逃げて信玄に手紙を出して駿河の攻略をすすめたという。(『松平記』)

こうしたことから、信虎は京に邸をかまえて継続的に13代将軍・足利義輝に奉公していたとみられており、公家とも交流していたからか、末女を菊亭晴季に嫁いでいる。
また、時期は定かでないが、信虎は出家して「無人斎道有」と称したことから、甲斐国主に返り咲くことはあきらめていたようだ。

永禄8年(1565)には永禄の変が勃発し、将軍義輝が三好三人衆に殺害されるが、このときの信虎の動向はわかっていない。
その後、永禄11年(1568)には信長が上洛して15代将軍義昭を誕生させるが、信虎は引き続き将軍義昭に奉公したとみられている。

なお、同年末には息子の信玄が駿河へ攻め込んで今川氏の本拠・駿府を占領した。『松平記』によれば、このときの占領にあたっての今川方への調略は、信虎が画策したといわれている。
なお、翌永禄12年(1569)には氏真が北条の庇護下に入ることで、戦国大名としての今川氏はここに終わった。

やがて信長と将軍義昭が対立し、元亀4年(1573)3月に義昭が挙兵すると、義昭の命で近江甲賀郡に向かった信虎は、六角氏とともに近江攻撃を計画していたという。(『細川家文書』)
また、同年4月には反織田勢力の中心にあった信玄が病死し、やがて信長は将軍義昭を追放して織田政権を樹立した。

信玄の死後、信虎は帰国を望み、しばらくして三男・武田信廉の居城・高遠城に身を寄せたといい、家督を継いだ孫の武田勝頼とも対面を果たしたという。

天正2年(1574)3月、そのまま高遠城で死去した。享年81。


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