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【超入門】5分でわかる武田信玄

武田信玄イラスト

戦国最強とも謡われる騎馬軍団を率いた武田信玄。

実際、軍神・上杉謙信を相手に互角以上にわたりあい、駿河の今川氏には圧勝、関東の覇者・北条氏とは駿河今川領を巡って激闘を繰り広げ、最終的には駿府を占領した。

さらに晩年に行なわれた西上作戦では、徳川家康を壊滅寸前にまで追い込み、織田信長をも畏怖させるほどの破竹の勢いで次々と敵城を陥落させているのだ。

しかし、そんな信玄でも病には勝てなかった。
作戦の停止を余儀なくされ、やむなく撤退すると、最期は帰路の途中で病死したのであった。

本稿では、そんな信玄の生涯・人物像をなるべく簡潔に、かつ、要点をまとめてみた。

誕生~父を追放して当主へ

信玄は大永元年(1521年)11月3日、甲斐の武田信虎と西郡の有力国人である大井氏の娘(大井夫人)との間に要害山城で産まれた。

信玄は幼名を"勝千代" というが、これは父・信虎が今川勢力と戦って敵の大将を討ち取ったとき、ちょうど信玄が産まれたことで、そのように名づけられたという。また、"太郎" との記録もあるが、これは幼名ではなくて通称である。

さて、幼年期の信玄の境遇だが、どうやらあまりめぐまれていないようだ。

というのも、大永5年(1525年)に弟の次郎(のちの武田信繁)が誕生してから次第に父の寵愛は次郎に移り、信玄は疎まれるようになっていったといい(『甲陽軍鑑』)、また、天文2年(1533年)に13歳で早くも父・信虎の政略によって上杉朝興の娘を正室に娶ったが、翌年の彼女の出産時には、母子ともに死去するという悲劇にもみまわれている。

元服と初陣

信玄16歳のときの天文5年(1536年)、元服して第12代将軍・足利義晴から偏諱を賜り、"晴信" と称した。このとき従五位下・大膳大夫に叙位・任官され、元服後には継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えているが、これは今川義元が斡旋したとされている。
なお、今川家では同年に家督争いが勃発し、義元が当主に就いている。

一説に元服と同じ年の冬には、父・信虎の信濃・海口城攻めに従軍して初陣を飾ったとされるが、定かではない。

この合戦で信虎は兵8000もの兵を率いて攻めたが、攻略できずに退却したところ、信玄は初陣ながら、わずか手勢300ほどで攻め落としてしまったと伝わる。

天文6年(1537年)になると、今度は武田方から信玄の姉・定恵院を義元に嫁ぎ、武田・今川間で同盟が締結された。

これは義元の軍師・太原雪斎の手引きによるものであり、今川氏の大きな外交方針の転換であった。

これにより、武田・今川・北条という大国間の情勢が大きく変動した。

かねてから今川氏と北条氏は血縁関係にあったため、良好な関係を築いており、信虎時代はもともと「今川・北条氏 vs 武田氏」という対立構図であった。しかし、この一件で構図は「北条氏 vs 今川・武田氏」に変わってしまった。

それは武田と敵対関係にあった北条が激怒し、まもなく今川領への侵攻をはじめたからだ。(河東の乱)

この北条と今川の戦いは以後、8年間も続き、最終的には信玄が今川氏と北条氏との仲介役を務め、和睦を成立させている。

父・信虎の追放と家督相続

信虎は甲斐を統一したものの、いくつかの問題をかかえていたことにより、天文10年(1541年)にはとんでもない事態が引き起こされた。

同年5月に武田軍が佐久・小県郡へ侵攻して甲府へ戻ったのち、翌月に信虎が駿河国へ出発したときのこと・・
信玄は信虎の留守に乗じて家臣とともに国境を封鎖し、信虎が帰国できないようにした。つまりはクーデターによって実の父を駿河へ追放したのだ。

信虎は"悪行"とか"悪逆無道"であり、家臣団や領民らの不満が蓄積していたところで、信玄と重臣が企てた政変だったとみられる。

信玄は、こうした異例の形で家督を相続したのであった。

のちの勢力拡大の基盤「信濃経略」

新当主となった信玄は、父の信濃経略を引き続き実行することになった。

諏訪・伊那・佐久郡の経略

まず信玄が最初に行なったのが、天文11年(1542年)の信濃諏訪領への侵攻だが、これは父・信虎のやり方とは一線を画すものであった。

諏訪の地は諏訪頼重が支配していたが、信虎は信玄の妹・禰々御料人を頼重に嫁がせて姻戚関係を結び、諏訪氏の力を借りて信濃経略を推し進めようとしていた。だが、信玄は諏訪領を直接支配して信濃経略の拠点に考えていたため、これを無視して侵略をはじめたのだ。

諏訪氏と同盟関係にあるため、それを侵すには大義名分が必要となる。
実はこの頃の諏訪氏内部では、頼重と家臣で対立があり、また、一族の高遠頼継も諏訪氏の惣領の地位を奪おうともくろんでいた。

信玄はこれを利用して軍事介入し、反頼重勢力と結んで諏訪氏を滅ぼしたのであった。


続けて信玄は戦線を伊那・佐久郡にも広げ、天文12年(1543年)には佐久・小県郡で小笠原氏の一門である大井貞隆を降し、その後は天文14年(1545年)までたびたび伊那郡を攻め、信玄に牙をむけた諏訪氏の傍流である高遠頼継を同年4月に、藤沢頼親を6月に降伏させ、上伊那をほぼ勢力下に収めた。

なお、この間に信玄は、信虎時代に対立関係にあった関東の北条氏と和睦しており、信濃侵攻を本格化させて、信濃守護の小笠原長時や小県領主の村上義清らと敵対するようになる。


天文16年(1547年)には関東管領勢に支援された佐久郡志賀城の笠原清繁を攻め、8月6日の小田井原の戦いで上杉・笠原連合軍に大勝し、佐久郡制圧をほぼ成就させている。

なお、同年には分国法・甲州法度之次第(信玄家法)を制定した。

小笠原長時、村上義清との戦い

天文17年(1548年)2月には村上義清と上田原で激突するが、敗れて宿老の板垣信方・甘利虎泰ら多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負って甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。(上田原の戦い)
同年7月には小笠原長時とも戦い、これには勝利した。(塩尻峠の戦い)


天文19年(1550年)7月には小笠原領に侵攻して、長時を村上義清のもとへ逃走させると、続いて天文同年9月に村上義清の支城・砥石城を攻めたが、後世に残る大敗を喫してしまった(砥石崩れ)
しかし、翌天文20年(1551年)に家臣・真田幸隆(幸綱)の調略によって、この砥石城を陥落させている。

甲相駿三国同盟の成立

さて、ここで再び武田・今川・北条の三者の関係をみてみよう。

このころは既に前述の河東の乱も終結し「北条氏 vs 今川・武田氏」の抗争はなくなり、天文23年(1554年)には三者間による同盟が成立した。(甲相駿三国同盟)

これは「善得寺会盟」と呼ばれ、義元の軍師・雪斎の尽力によって、信玄と義元、そして北条氏康の三将が駿河の善得寺に集まり、婚姻同盟が結ばれたという。しかし、実際は以下のように別々に婚姻が進められ、結果的に三者間が姻戚関係になったと考えられている。

  • 天文22年(1552年)11月:嶺松院(義元の娘)→武田義信(信玄の嫡男)に嫁ぐ
  • 天文23年(1554年)3月:早川殿(氏康の娘)→今川氏真(義元の嫡男)に嫁ぐ
  • 天文23年(1554年)12月:黄梅院(信玄の娘)→北条氏政(氏康の嫡男)に嫁ぐ

なお、この甲相駿三国同盟は、川中島の戦いがはじまった翌年に成立しているが、これは信玄が北信濃攻略のため、すなわち上杉謙信との戦いに専念するために、後方の安全をはかろうとしたものであろう。

上杉謙信との死闘「川中島の戦い」

天文22年(1553年)、ついに最強のライバル・上杉謙信が動き出す--。

同年4月、信玄に尾城(埴科郡坂城町)を落とされた村上義清が越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)に助けを求めた。これに謙信とかねてから関わりのあった他の北信濃の豪族らも結束し、これに応えるべく謙信が北信濃に攻めこんできたのだ。

これが信玄と謙信の出会いであり、以後、両者の壮絶な死闘・川中島の戦いは、永禄7年(1564年)まで5度にもわたった。

信玄vs謙信の銅像

5度の戦いの時期は以下。

  • 第一次合戦:天文22年(1553年)
  • 第二次合戦:天文24年(1555年)
  • 第三次合戦:弘治3年(1557年)
  • 第四次合戦:永禄4年(1561年)
  • 第五次合戦:永禄7年(1564年)

永禄4年(1561年)の第四次合戦は最大規模の合戦となり、弟・武田信繁をはじめ、多くの有力家臣を失い、信玄自身も負傷したという。

ところで、川中島は決着がつかなかったものの、実際にはどうだったのか?
この戦いで両者の戦争観は以下のように大きく異なっていた。

  • 謙信は主に合戦の勝敗に注力、信玄は謀略・外交・日常活動など広範囲のことを重視。
  • 謙信は即戦即決で短期決戦、信玄は長期戦で正面衝突を回避。

実のところ、川中島の戦いでは対戦するたびに信玄の勢力圏が北に伸びており、5度の大戦後、謙信は国境地帯をわずかに保つのみとなっていたのだ。

2人の戦争観による差がでたといえる。信玄は合戦で得たというより、謙信が撤退した合戦戦に所領を確保していったと考えられている。

こうして川中島終結後、信濃侵攻は一段落となり、以後は西上野の侵攻へ向かうことになる。

なお、信玄はこの戦いの期間中である1559年(永禄2年2月)に出家し、"徳栄軒信玄" と号している。

義信事件と三国同盟の破綻

川中島が終わったころより、信玄と嫡男・義信の父子関係に不和が生じはじめたという。 そして永禄8年(1565年)10月、謀反の嫌疑をかけられた義信が甲府東光寺に幽閉される事件が発生。このとき義信派で首謀者とされる飯富虎昌らが処刑されている。

ところで事件はナゼ起きたのか。

きっかけは同年における信玄と信長の同盟締結とみられている。このとき、信玄の後継ぎ・武田勝頼と信長養女・遠山直廉の娘が婚姻している。これにより、義信と今川義元の娘・嶺松院の結婚は解消され、武田・今川間の姻戚関係が切れた。

このころの今川氏は、すでに桶狭間で義元が信長に討たれ、後を継いだ今川氏真の代になっていたが、元々配下にあった徳川家康の独立をも許して敵対化しており、着々と弱体化が進んでいた。そしてこの事件をきっかけに今川・武田間には緊張が生じ、のちの信玄による駿河侵攻(今川攻め)につながっていくのだ。

こうした中、信玄は西上野へも勢力を広げ、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とすなど、西上野を領国化することに成功していた。

卓越した外交手腕で攻略「駿河侵攻」

永禄11年(1568年)に入り、家康と今川領割譲の密約を交わした。つまり、平たくいうと、武田が駿河を攻めとり、徳川が遠江を攻めとるということだ。ちなみに信玄は北条にも同様の話を持ちかけたが、これは断られたとみられる。

駿府を占領するも・・・

そして同年末には駿河侵攻を開始し、わずか8日で今川氏真のいる駿府へ乱入して占拠した。

氏真は狼狽して重臣・朝比奈泰朝の居城・遠江掛川城へ逃れている。なお、このとき氏真の正室(父は北条氏康)は興にも乗れず、裸足・徒歩で脱出する有様だったといい、のちにこれを知った北条氏康は嘆いている。

なお、このころ、家康も遠江へ侵攻を開始、そして北条も今川の援軍として氏政が出陣している。


ナゼこんなにあっさりと駿府は陥落となったのか?
それは武田と徳川が事前に今川方の諸将を調略していたからだ。

いざ、信玄が侵攻をはじめると、今川方の諸将は次々に寝返った。武田との友好関係が途切れたころから、すでに今川家中は戦々恐々としていたのだろう。

駿府を占領したのだから、信玄はこのまま順調に駿河をゲットするのかと思いきや、そんなに甘くはなかった。それどころか一転して大ピンチに陥ることになるのだ。

信玄の誤算は主に2つ--

1つは北条氏政を敵にまわしたこと。もう1つは途中で家康とも不和になったことであった。

ピンチに陥った経緯を大まかに時系列で羅列しよう。

  1. 駿府占領後まもなく、北条氏政が今川支援の軍を動かす。
  2. さらに北条は信玄打倒のため、上杉謙信に使者を派遣して同盟を打診する。
  3. 同じころ、信玄は家康との約束を破り、遠江に別働隊を動かしたが、徳川軍と鉢合わせとなった。
  4. 年明けた永禄12年(1569年)正月、信玄は約束違反の件で家康から抗議を受ける。
  5. 同年1月~2月頃、駿府の背後を北条氏政の軍勢に陣取られ、甲府への退路を断たれる。
  6. 3月には、氏真の籠もる掛川城を落とせない家康が、今川との和睦交渉をはじめる。

家康は「駿府から武田軍を追い払ったら、今川に駿府をお返しする」と言って降伏をさそっていた。一方の駿府では、信玄が背後の北条軍と奮戦するものの、今川旧臣も一揆を起こして北条軍に加担するなど、長期戦の様相を呈してきた。さらには上杉謙信の動向も気になる。雪が融けて武田領へ攻めてきたら・・・

得意の外交手腕を発揮

こうした窮地の中でも、信玄は得意の外交で切りぬけようと奔走していた。

現時点での唯一の同盟相手といったら・・・それは織田信長であった。

信玄は信長を通して将軍足利義昭を動かし、信玄と謙信の和睦を依頼したのだ。これが実は大きなキーポイントであり、のちに駿河の大半を制圧する要因となる。

4月には信玄は一旦駿府をあきらめ、なんとか帰国。一方、5月に徳川と今川の間で和睦が成立し、掛川城は降伏開城となって氏真が北条の庇護下に入り、戦国大名としての今川氏は滅びたのであった。

ちなみに信玄は信長を頼ったとき、「信長以外に味方がおらず、信長がそっぽを向いたら武田は滅亡する他ない」と家臣に嘆いている。百戦錬磨の信玄が相当あせっていたのがうかがえる。

駿河制圧へ

今川滅亡時点では、徳川・北条が今川領となり、撤退した信玄はなにも得られなかった。しかし、ここから信玄の怒涛の反撃がはじまる。

甲斐に帰国後、信玄はすぐに軍事行動を再開し、武蔵・相模・伊豆・駿河などに侵入して北条軍とたびたび戦い、巻き返していった。

実はここで上杉謙信が重要な役割を果たしていた!

北条と武田の両者とも、上杉謙信に和睦を打診していたのは先に述べた。謙信は6月に北条(越相同盟)、7月に武田(甲越和与) と立て続けに同盟を結んでいる。要するに、北条のほうが信玄よりも一足早く和睦要請していたにもかかわらず、謙信は北条に肩入れをしなかった。

実際、謙信は北条との和睦交渉のテーブルについてから、たびたび出陣要請を受けていたが、全く動いていないのだ。

これが信玄を後押しした。
信玄はその後、北条の敵対勢力である常陸国佐竹氏や下総国簗田氏などと北関東勢力と同盟を結び、北条氏の本拠地・小田原城まで侵攻し、その撤退戦で有名な三増峠の戦いで北条勢を撃退している。

こうして信玄は、その卓越した外交戦略により、北条との戦いに専念。同年末には再び駿府を占領し、駿河制圧の主導権を握ったのだ。

さて、ここまでは今川領を巡り、めまぐるしい外交戦が行なわれたが、年が明けた永禄13年(元亀元年・1570年)には新たなる展開が待ち受けていた・・・。

まずは簡潔に結論だけ先に言ってしまおう。

信玄は駿河侵攻を引き続き実施して北条方と繰り返し戦い、約1年をかけて駿河一国をほぼ制圧している。

その一方、この年は対外情勢がさらに大きく変化し、のちの信玄による西上作戦の実行につながった。

1つに信玄。謙信との同盟を解消している。
2つに家康。彼はその謙信と同盟を結び、信玄とは断交することを宣言している。
そして、最後はキーマン信長。信長と将軍足利義昭の関係にヒビが入り、「信長勢力 vs 将軍&反信長勢力」の構図が働きはじめるのだ。

反織田勢力とは、主に浅井・朝倉・本願寺・三好などであり、ここに信玄も加わることになる。

なぜ、このように対外関係が変化していったのか?

家康・信玄・謙信の3者に関してはわかりやすいだろう。

信玄は今川攻めの際、家康との密約を破ったことで不信感を持たれていた。家康は信玄との戦いに備えて、謙信と和睦の交渉を重ねていた。そして謙信は信玄と和睦中であったが、家康との和睦するため、信玄との和睦を解消した・・・。といったところであろう。

反織田勢力の結集のきっかけに?

では、信長はどうか?
これには少し年を遡っての説明が必要になる。

信玄が家康とともに駿河・遠江侵攻をもくろんでいた頃、信長は室町幕府の再興をはかる足利義昭を手助けして上洛を果たし、将軍義昭を誕生させ、自らは将軍の後見人として事実上の織田政権を確立させた。

このとき、信長は殿中御掟という掟を義昭に承認させているが、これは両者間での「幕府政治などに関する約束事」のようなものであった。

信長と将軍義昭の不仲は同年の正月に端を発した。信長は殿中御掟に条目を追加し、義昭に承認させることで将軍権力の制限を強めたのだ。

信玄は信長と同盟関係にあったが、やがて信長に敵意を抱くようになっていった。同年12月には信長と敵対関係にある本願寺が、信玄に協力を仰いでいる。

幻の上洛「西上作戦」

ついに将軍義昭が反織田勢力の結集に動きはじめた。

元亀2年(1571年)に入ると、将軍義昭は信玄や他の大名らに信長討伐の御内書を発送しはじめたといい、反織田勢力の結集がはじまった。

信玄は信長との同盟を維持し続けて、表面上は信長との友好関係を築いていたが、裏では反織田の意志を明確にし、将軍や反織田勢力と連携をとった。実際、反織田勢力との書状のやりとりの中で、将軍義昭をないがしろにしているとして信長のことを非難している。

徳川領への侵攻

ところで、信玄と周辺国の同盟関係はどうなっているのか?ここでまた、情勢が変わるのでみてみよう。

信長×家康=同盟、信長×信玄=同盟、信玄×家康=

この頃の信玄・信長・家康の三者の関係は微妙なものとなっていた。

この場合、家康と信玄も友好関係にあるべきだが、信玄と家康の関係は駿河侵攻以来、事実上は破綻していたのだ。実際、信玄は信長に事前通告もせず、同年2月~5月にかけて家康の所領である遠江と三河へ侵攻している。
また、9月には信長が比叡山焼き討ちを行なったが、信玄はこの行為に対して「天魔ノ変化」と信長を非難している。ちなみに信玄は仏法の庇護者であった。

10月に北条氏康が没したことで、同年末には武田氏と北条氏との同盟(甲相同盟)が復活した。これは一説に、北条氏政が「再び武田と和睦せよ」との北条氏康の遺言に従ったという。

これにより、北条から攻撃される心配がなくなったのだから、西への侵攻をもくろむ信玄にとって大きな出来事であった。
だが、まだ完全に後顧の憂いがなくなったわけではない。

西へ向かうには、背後の上杉謙信をどうにかしなければいけないのだ。

謙信を牽制した信玄の策

そこで信玄は、元亀3年(1572年)に入り、以下の2つの作戦を実行した。

  • 越中・加賀の一向一揆を利用して謙信と戦わせる(5月~)
  • 飛騨国の経略(7月~)

一つ目の作戦は、結果的に翌年4月まで謙信を釘づけにすることに成功した。

二つ目の作戦は、同国の上杉方を排除することに成功した。これで織田と上杉の連絡ルートも断たれた。なお、その後は飛騨からさらに美濃国郡上郡の遠藤氏を懐柔することに成功し、「信濃→飛騨→美濃」と辿って近江浅井・越前朝倉への連絡ルートを作ったのだ。

これらの作戦が成功し、いよいよ西上作戦の準備は整った。

怒涛の勢いで敵の諸城を落とす

そして同年10月、信玄はついに甲府から出陣、将軍・足利義昭を中心とする信長包囲網の一角として大規模な遠江・三河侵攻(西上作戦)を開始。信濃へ進軍してから軍を3手に分けると、ここからの怒涛の勢いで敵地を攻略していった。

  • 山県昌景隊:信濃から三河方面へ。柿本城、井平城を攻略して、遠江の二俣城で合流。
  • 秋山虎繁隊:信濃から東美濃方面へ。織田方の岩村城を陥落させる。
  • 信玄本隊:信濃から南下して遠江方面へ。遠江の諸城を落とし、二俣城で合流。

実は西上作戦が開始されたとき、信長はまだ信玄と同盟関係にあり、信玄が攻め込んでくるとは考えていなかった。

実際に信長は、信玄が甲府を出陣した2日後に信玄に書状を送っており、その内容からは、これから信玄が攻める相手は上杉謙信だと勘違いしている様子がうかがえる。
そして、美濃の岩村城が攻撃されたことを知ると、信長は謙信に書状を送り、激怒しているのだ。

西上作戦といえば、家康が壊滅的打撃を受けたことで知られるが、その展開を簡潔にみてみよう。

信玄本隊は、遠江国へ侵入した後は犬居城の天野藤秀を案内人として、馬場信春を別働隊として二俣城の包囲に向かわせ、自らはさらに南下して「天方城→一ノ宮城→飯田城」と次々に攻略し、家康のいる浜松城に迫っていった。

そうした中、家康は武田軍の偵察のために本多忠勝らと見附(磐田市)へ向かったのだが、このとき信玄本隊と徳川軍が接触すると、武田軍はこれを追撃して一言坂で徳川方を圧倒している。(一言坂の戦い)
10月中旬ごろの出来事だが、このときに本多忠勝が殿を務め、その戦いぶりが武田方に称賛されたのはよく知られている。

その後まもなく、信玄は山県昌景や馬場信春らと合流し、二俣城を攻撃し、12月までにこれを陥落させている。(二俣城の戦い)

これに続き、家康を究極に追いつめたのが三方ヶ原の戦いである。
信玄は家康の居城・浜松城に最接近するが、攻撃することなく三方ヶ原台地へ向きを変えて進軍してところ、徳川軍が追撃しようと出陣してきた。これを全軍で待ちかまえていた武田軍が猛攻を加えて大勝したというものだ。

信長の援軍も含め、武田軍が討ち取った敵兵は1000を超えたという。

なお、この合戦での武田軍の大勝に接し、本願寺顕如は信玄に戦勝祝いの書状を送り、浅井・朝倉や一向衆門徒へも知らせるなどして反織田勢力に檄を飛ばしている。

最期

その後、武田軍は三河国へも侵入し、年明けの元亀4年(1573年)正月11日には野田城(愛知県新城市)を包囲。2月にはこれを陥落したが、信玄の快進撃はここまでとなった。

信玄の西上作戦の目的には、上洛説や遠江奪取説、打倒信長説などあるが、いずれにしてもそれらの目論見は幻と消えた。

野田城攻めの陣中で前々からの持病が悪化し、もはや戦えるような状態ではなかったのだ。

そもそも、この西上作戦も病気のためにおくれたほどであった。その後は療養のために一旦長篠城に入ったようだが、病状は一向によくならないために4月には撤退を開始し、ついには帰国途中に危篤となった。

信玄は死に臨み、子・勝頼を枕元に呼び、「3年は喪を秘し、備えを堅固にせよ」と遺言し、4月12日にこの世を去った。享年53。


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