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馬場信春(信房):"不死身の馬場美濃"と評された猛将

馬場信春の肖像画

生涯、討死するまでは1ヵ所たりとも手傷を負うことなかったという馬場信春。武田四宿老の一人となり、指揮官としての戦場での才覚はもちろん、築城の技術にも長けていたという。
そうした信春の成長の背景には、ある者たちから教えを受けたことにあった。

信玄に抜擢され、馬場氏の名跡を継ぐ

信春は永正11年(1514)頃に誕生。武川衆と呼ばれる甲斐北西部の土豪・教来石氏の出身とされ、はじめは教来石民部少輔と名乗り、武田信虎時代から武田氏に仕えたという。

17歳の時に信虎に従って初陣を果たしたというから、享禄3年(1530)ということになる。このころは主君・信虎が既に甲斐を統一し、信濃国の諏訪氏や関東の北条氏と戦っていたころである。

そして25歳の頃、すなわち天文7年(1538)頃から信玄に抜擢されたという。

信玄は天文10年(1541)に父・信虎をクーデターで追放して当主になっているから、信春は信玄が当主になる前から信玄の側近として仕えていたということになろう。
なお、このときのクーデター計画に事前に参加していたともいわれている。

新当主となった信玄は、天文11年(1542)に諏訪領への侵攻、天文14年(1545)の上伊那郡の高遠城への侵攻など、信濃経略を進めていったが、信春もこれらに従軍して功を重ねていったとみられる。
そして、翌天文15年(1546)には信玄から侍大将に抜擢されて50騎を与えられ、その後、時期は定かでないものの、断絶していた武田氏家老の馬場氏の名跡を相続したという。

深志城・牧之島城の城代を務める

確実な史料としての信春の初見は、天文18年(1549)12月に、"駒井高白斎が馬場民部少輔の奏者になった" との記録だという。

深志城の城代に

天文19年(1550)、武田軍が小笠原長時の本拠・林城を占拠した際、林城の支城であった深志城が筑摩・安曇郡攻略の新たな拠点として修築され、信春が城代に任命されている。
なお、翌天文20年(1551)に落とした小笠原方の平瀬城には原虎胤を置き、信春とともに占領地区の統治に当たらせたようだ。この年に信玄は筑摩・安曇郡の経略をほぼ終え、小笠原氏は没落した。

その後、天文22年(1553)に武田軍が村上氏の本拠・葛尾城を攻略し、宿敵の村上義清を越後へ追いやったときには、信春もこれに参加したとされる。
直後には越後の上杉謙信が村上領奪還のために信濃へ来襲し、川中島の地で信玄と謙信の戦いがたびたび繰り広げられることになる。

軍術・築城術を学ぶ

ところで、信春は軍術と築城術に長けていたが、築城術は山本勘助より、軍術は小畠虎盛より教えを受けたと伝わる。

信春が築城術を学んだきっかけは、信玄が信春に築城術を学ばせるため、信玄と勘助が築城術で語り合う場に信春を同席させたことにあったといい、勘助の死後は、武田領の築城はすべて信春が命じられたという。
なお、信春が設計・築城を手掛けた城には、信濃国の牧之島城、駿河国の江尻城や田中城、遠江国の諏訪原城や小山城などがあるという。

一方、軍術の師である小畠虎盛からは、指揮官としての心得を学び、のちに彼から旗指物を貰い受けたという。

信春は川中島合戦が開始されてからも功を重ねていき、永禄2年(1559年)には120騎持に加増され、譜代家老衆に名を連ねたという。

永禄4年(1561)の上杉謙信との激闘となった第四次川中島の戦いでは、信玄から山本勘助とともに上杉軍撃滅の作戦立案を命じられ、兵を二手に分ける大規模な別働隊の編成を献策したといい、その別働隊の指揮を高坂昌信とともに務めている。
ただ、この作戦は謙信に察知されて失敗、信玄本隊が危機にさらされたとき、山本勘助は責任を感じて敵中に突入して討死している。

牧之島城の城代に

信春は永禄5年(1562)になると、自ら牧之島城を築城して、深志城からここに移って城代を務めている。

ここでは越中・飛騨方面の情報収集や外交交渉、さらに上杉謙信への備えとして海津城を守備する高坂昌信を側面から軍事支援する役割を担っていたとされ、こうした役割から越中国の椎名氏・飛騨国の江馬氏と誼を通じたとされる。
ただ、越中方面に直接軍勢を派遣することはなく、また、飛騨方面の軍事は実際には山県昌景が担当していたようであったことから、信玄の出陣の際には常に付き従ったとみられている。

なお、この年には原虎胤が死没しているが、信春は彼が称していた"美濃守"の官位を引き継いでいる。

駿河侵攻と西上作戦

永禄11年(1568年)から信玄が外交方針を転換して今川領に攻め込んだ駿河侵攻に従軍すると、翌永禄12年(1569年)には北条攻めの退却戦である三増峠の戦いで先鋒を務めて功をあげた。

元亀3年(1572年)から行なわれた西上作戦では、信春は先鋒の一翼を担い、一隊の指揮を任されている。その途次で勃発した三方ヶ原の戦いにおける信春の逸話があるので以下に紹介しよう。

※『甲陽軍艦』より

三方ヶ原で家康との決戦を控えていた信玄が、物見に徳川軍の陣形と軍勢の様子などを偵察させたときのこと。

ーー 遠江国・三方ヶ原付近ーー

偵察を終えた物見の兵が戻ってきて、信玄に報告した。

物見の兵

申し上げます!
徳川軍の備えは薄いゆえ、我が軍の勝利は疑いないかと・・。

家来アイコン

武田信玄

ううむ・・・。

武田信玄アイコン

慎重な信玄は、寡兵の徳川軍であるにもかかわらず、鶴翼の陣(=鶴が羽を広げているような形の陣形)を敷いていたため、再びその物見と信春に対して偵察してくるよう命じた。

そして、徳川軍の様子をつぶさに観察した信春が戻ってきて報告した。

馬場信春アイコン

馬場信春

御屋形様。確かに物見が言うように、徳川軍の備えはいかにも薄く、合戦すべきかと存じます。

武田信玄

うううう~む・・・。

武田信玄アイコン

しかし、慎重な信玄はなおも決断に迷っていた。すると信春が言った。

馬場信春アイコン

馬場信春

・・御思慮はもっともですが、この合戦の勝利は確実でございます。

こうして信春が重ねて言ったため、信春を信頼していた信玄はついに決戦を決断したという。


なお、駿河侵攻と西上作戦を展開した時期は、新たな占領各地に武田軍の戦略拠点が築かれたが、これらの多くを信春が手掛けたのは先に述べたとおりである。

長篠の戦いでの最期

信玄の死後、武田勝頼の代には重臣筆頭として補佐したものの、勝頼から疎まれたという。
天正3年(1575年)の長篠の戦いでも、信春は決戦を望む勝頼に対してその無謀さを説き、撤退や策を進言したが、すべて退けられている。

『甲陽軍鑑』に伝わる信春の最期をみてみよう。

この戦いで武田軍は、馬防柵と鉄砲を駆使した織田・徳川連合に大敗を喫したのは周知のとおりだが、そんな戦いでも馬場隊は織田軍の佐久間信盛隊を敗走させるなど健闘したらしい。

以下、『甲陽軍鑑』に伝わる信春の最期をみてみよう。

長篠合戦で、武田軍が大敗して総退却となると、馬場信春は追撃してくる織田・徳川の大軍の進路を防いで戦い、主君・勝頼を逃がすことに成功した。

しかし、馬場隊の多くが討たれ、ついには小高い場所で槍を手に指揮していた信春だけが手傷も負わずに残った。

ーー 長篠の地ーー

そして、まもなく敵兵に囲まれた信春が言った。

馬場信春アイコン

馬場信春

それがしは馬場美濃である。討って手柄にするがよい!

敵兵たち

敵兵A:なに!?あ、あの馬場美濃守か!!!
敵兵B:む、むむうっ・・・・。
敵兵C:(*゚Д゚*)

家臣アイコン

敵兵らは信春を恐れ、誰も近づかなかった。・・がしかし、川井三十郎という武士が槍を手に信春に立ち向かってきた。

これに信春は応戦することもなく、静かに言った。

馬場信春アイコン

馬場信春

・・・馬場美濃である。介錯するがよい!

そうして川井なる者に首を与えたという。


長篠の戦いでの信春の奮戦ぶりは、織田方からも "馬場美濃守比類なし" と称えられている。


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