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内藤昌豊

内藤昌豊は甲斐武田氏の家臣で、のちに武田四天王の一人にも数えられたことで知られる。

また、武勇に優れて250騎を指揮したといい、家臣や同心衆にも慕われたと伝わっているが、武田四天王の中では地味な印象が強い昌豊。本記事ではあまり知られていない昌豊の人物像にも触れてみようと思う。

前半生は不明、やがて信玄の側近へ

昌豊は大永2年(1522年)武田信虎の重臣・工藤下総守虎豊の次男として誕生したという。

工藤氏は藤原南家の流れを汲み、鎌倉時代に甲斐源氏に属した名族らしい。

信虎時代は浪人生活か?

信虎時代の昌豊を語る史料はないが、父・虎豊や兄とされる工藤長門守に関しては、以下のように逃亡・殺害説などが伝わっている。

  • 『勝山記』:永正5年(1508)に信虎に背いて敗れ、伊豆国韮山の北条早雲を頼った人物に「工藤殿」(=父・虎豊と推定)という者がいた。
  • 『甲陽軍艦』:父や兄が、主君信虎を諌めたところ、勘気に触れて兄(一説に父)が手討ちにされた。

上述のような事件の後、昌豊の動向はわからないが、天文10年(1541年)に信虎嫡男の晴信(=のちの信玄)や当時の宿老の板垣信方らがクーデターを起こし、武田家当主が代替わりした後には、武田家に帰参して信玄の側近として仕えたと考えられている。

なお、先に述べた、昌豊の兄が手討ちとなった逸話は『甲陽軍鑑』の別の箇所にも登場している。
それは、信虎が晩年に孫の武田勝頼と対面したとき、腰物を抜いて「この刀で50人に余るものを手討ちにしたが、その中には、ここにいる内藤修理(昌豊) と名乗る奴の兄をけさがけに斬ったこともある」と言い、その刀を振り回したという。

信玄の側近として活動

確実な史料における昌豊の初見は、永禄2年(1559)6月に "工藤源左衛門大尉" を称して信玄側近として活動していたことが確認できる。なお、"昌豊" の名は一般に実名とされているが、これは誤伝であって 実際は "昌秀" が正しいらしい。

このころの武田の所領は、甲斐一国のほか、信濃国も上杉謙信と争った北東部の川中島地域の一部を除き、ほとんど制圧した状況であった。

箕輪城代となり、内藤の名跡を継ぐ

永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いでは本隊に所属、永禄6年(1563)頃から信濃国・深志城を守備し、永禄9年(1566)までに深志城代に抜擢された。
また、この永禄9年という年は、かねてから上野国へ侵攻をしていた武田氏が箕輪城(群馬県高崎市)を陥落させ、西上野をほぼ掌握することになった年でもあり、昌豊もこの頃から後閑氏など上野国衆との取次を担うようになったらしい。

一方、対外情勢だが、この頃はまだ武田・今川・北条の三国同盟が続いていたが、すでに駿河今川氏は、氏真の代となって没落の一途をたどっていた。しかし、信玄は外交方針を転換し、永禄11年(1568)には徳川家康とともに今川氏を攻めて今川領を分割する密約を結んだのである。

こうして同年12月には甲府を出陣し、今川氏の本拠・駿府を占領。今川氏救援に動いた北条氏とも同盟関係は破綻した。

永禄12年(1569)には、武田と北条の戦いはたびたび繰り返され、一方で掛川城に逃亡して籠城していた今川氏真は家康に攻め込まれて降伏し、北条氏に庇護されることになった。

信玄は同年8月から10月にかけ、大胆にも上野国から南下して北条氏の居城がある相模国・小田原城まで攻め込んだが、このとき内藤隊もこれに従軍している。
なお、内藤隊は小田原城の大手口を攻め込んで北条軍の将兵多数を討ち取り、さらに前進しようとしたが、馬場信春から使者を通じて謎かけの助言(=深入りするな!の意)を受け、この意図を察して兵を退いたという逸話が伝わる。

その直後の退却戦となった三増峠の戦いでは、昌豊は小荷駄隊を率いて自軍の補給を支えたといい、この戦いで箕輪城代の浅利信種が討ち死にしたため、まもなくして昌豊がその後任として箕輪城の城代に就いた

この人事異動にあたっては、信玄は昌豊に断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継がせており、"内藤修理亮" を名乗らせたようである。

なお、元亀2年(1571)には上杉謙信から同盟の申し出があったが、昌豊は信玄側近の跡部勝資と協議してこれを退けており、軍事・外交面で一定の権限を有していたことがうかがえる。

武田軍の副将格?

『甲陽軍艦』によると、昌豊は武功を重ねても、これを当たり前のこととして、あえて感状をもらわなかったという。
また、山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と、信玄の実弟・武田信繁と並んで副将格に評している。

こうしたことから、信玄や昌景から絶大な信頼を得ていたことがうかがえる。

長篠合戦で散る

元亀4年(1573)の信玄死後は、家督を継いだ武田勝頼に仕え、翌天正2年(1574年)頃には大和守に改称したとみられる。

昌豊が最期の時を迎えたのは、天正3年(1575)長篠の戦いである。

この戦いは、馬防柵を敷いて織田・徳川連合が鉄砲を中心に戦って、武田軍が大敗したのは有名だが、昌豊隊は山県昌景らとともに武田軍左翼を担当して徳川軍と衝突したらしい。

無謀にも馬防柵に突撃した中で、武田軍は壊滅的打撃を受けたが、昌豊隊だけが攻撃を受けながらも、三重にあった柵をすべて突破し、しかも正対していたた敵将は、あの天下無双の猛将・本多忠勝の隊だったという。
だが、本多隊の陣地にまで突入した昌豊隊はわずか24人だけであり、彼らはみな、自ら槍を取った忠勝に退けられたらしい。

兵がわずか100余人となった昌豊は、果敢にも家康本陣に突撃を敢行したが、周囲の徳川軍の鉄胞・弓矢を浴びてほとんどが討死し、昌豊も全身に無数の矢が刺さって転倒した。
それでも昌豊は起き上がろうとするが、最期には朝比奈泰勝に討ち取られたという。


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