あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

内藤昌豊

内藤昌豊(ないとう まさとよ、1522-1575年)は甲斐武田氏の家臣で武田四天王の一人に数えられる。

幼年のころ、父が主君の武田信虎に殺害されて相模へ亡命するという憂き目をみるが、信玄が武田家の当主になると、側近に取り立てられると、戦功を重ねていき、信濃国・深志城の城代に抜擢された。
その後、箕輪城代となって武田家譜代の内藤家の名跡を継いでいる。

信玄の弟・武田信繁と共に武田の副将格として評されるほどに武略に長けていたが、勝頼の代に長篠の戦い(1575年)で馬場信春とともに殿軍を務めて惜しくも戦死した。

経歴

大永2年(1522年)に武田信虎の重臣・工藤下総守虎豊の次男として誕生したという。
"昌豊" の名は一般に実名とされているが、実はこれは誤伝であって実際には "昌秀" が正しいとされている。

信玄に見いだされ、城代へ抜擢される

父の虎豊が信虎の勘気に触れて殺されたとき、昌豊は甲斐から相模国へ亡命したといい、天文10年(1541年)に武田信玄がクーデターを起こして信虎を追放すると、武田家臣団に復帰して信玄の側近として仕えたという。

昌豊の初見の史料は永禄2年(1559年)で、"工藤源左衛門大尉" を称して信玄側近としての活動が確認できる。

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは本隊に所属して別働隊の大将を務めたといい、永禄6年(1563年)頃からは信濃国・深志城を守備し、永禄9年(1566年)までに深志城代に抜擢された。また、同年頃から信玄による西上野侵攻に伴い、後閑氏など上野国衆の取次を務めたという。

永禄12年(1569年)には手切れとなった北条氏の居城・小田原城を攻め、その退却戦となった三増峠の戦いでは小荷駄隊を率いて自軍の補給を支えたといい、この戦いで箕輪城代の浅利信種が討ち死にしたため、まもなくして昌豊がその後任として箕輪城の城代に就いた

この人事異動にあたっては、信玄は昌豊に断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継がせており、"内藤修理亮" を名乗らせたようである。

元亀2年(1571年)には上杉謙信から同盟の申し出があったが、昌秀は信玄側近の跡部勝資と協議してこれを退けており、軍事・外交面で一定の権限を有していたことがうかがえる。

武田軍の副将格?

『甲陽軍艦』によれば、信玄は昌豊がいくら武功を重ねても、これを当たり前のこととして一度も感状を出さなかったといい、一方の昌豊も合戦の勝利は大将である信玄の軍配があってこそであり、自分の手柄にこだわらなかったという。
また、山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と、信玄の弟の武田信繁と並んで副将格に評している。

こうしたことから昌豊は、信玄や山県昌景から絶大な信頼を得ていたことがうかがえるのである。

勝頼の代には・・

元亀4年(1573年)の信玄死後は、家督を継いだ勝頼に仕え、翌天正2年(1574年)頃には大和守に改称している。

しかし、天正3年(1575年)に織田・徳川連合に大敗を喫した長篠の戦いでは、主君・勝頼を逃がすために馬場信春とともに殿軍を務め、最期は徳川家臣・朝比奈弥太郎によって討ち取られた。享年54。

略年表

  • 大永2年(1522年)、武田信虎の家臣・工藤下総守虎豊の次男として誕生
  • 天文10年(1541年)以後、信玄に仕える
  • 天文15年(1546年)、50騎持の侍大将となる
  • 永禄2年(1559年)、初見の史料として"工藤源左衛門大尉" を称す
  • 永禄4年(1561年)、第四次川中島の戦いに従軍
  • 永禄6年(1563年)、信濃国・深志城を守備する
  • 永禄9年(1566年)頃、深志城代に抜擢。また、上野国衆の取次を務める
  • 永禄12年(1569年)、三増峠の戦いに従軍。戦後に箕輪城代となり、同時に内藤姓を与えられて修理亮を名乗る
  • 元亀2年(1571年)、越後上杉氏からの同盟申込を拒否
  • 天正2年(1574年)、大和守に改称
  • 天正3年(1575年)、長篠の戦いで戦死。


あわせて読みたい
山県昌景
武田信玄トップ / 登場人物伝
武田信虎
武田信玄トップ / 登場人物伝
馬場信春
武田信玄トップ / 登場人物伝
武田信繁
武田信玄トップ / 登場人物伝
武田勝頼
武田信玄トップ / 登場人物伝
武田信玄の名言・逸話まとめ
武田信玄トップ / 入門
高坂昌信
武田信玄トップ / 登場人物伝

 PAGE TOP