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高坂昌信(春日虎綱):"逃げ弾正" の異名をもつ『甲陽軍鑑』の著者

高坂昌信(実名は春日虎綱)は信玄・勝頼期の事績を記した『甲陽軍鑑』の著者として知られる。
勝頼期において、長篠の戦いで織田・徳川連合に大敗したころ、武田氏の行く末を危惧した虎綱が、武田家の事蹟や軍学などを甥に口述して書き継がせたのが『甲陽軍鑑』だという。

彼は百姓の出であったが、信玄に召し出されてから功を重ね、のちに海津城の城代に抜擢され、武田四天王の一人にまで数えられるほどになった。

以下に、彼の事蹟とともに、異例ともいえる大出世の秘密を探ってみよう。

百姓から信玄の近習に

虎綱は大永7年(1527)に甲斐国八代郡石和(現在の山梨県笛吹市石和町)の富裕の百姓・春日大隅の子として誕生した。幼名は "春日源五郎"といった。

義兄に春日家の家督と財産を奪われる

虎綱の誕生以前には、春日家には跡継ぎの男子がなかったため、娘に養子を迎えていたという。その養子は春日惣右衛門といい、虎綱の義兄にあたる人物である。

虎綱が幼少の頃、父の春日大隅が亡くなっているが、このときに春日家の家督は義兄の惣右衛門が継いだという。

そして義兄はあろうことに、春日家の財産すべてを独り占めにしようとしたらしく、天文11年(1542)には、11歳となった虎綱が義兄を武田家に訴えたが、虎綱は敗訴して身寄りが無くなってしまった。
これは惣右衛門が春日家の財産の一切を譲り受けるという父の遺言を持っていたためだという。

一転して信玄に取り立てられる

しかし、虎綱は運が強かったようだ。

というのも、先の裁判の場には信玄も出席しており、虎綱の立ち居振る舞いに注目していたという。そして、敗訴して以降、思い詰めていた虎綱は義兄・惣右衛門を斬ろうとまで考えたが、思いとどまったといい、やがて信玄に召し出されて近習衆に加わったらしい。
虎綱はせいぜい御小人など地位の低い役回りになるだろうと考えていたが、召し出されて30日目にして、将来の側近候補ともいえる近習衆にされると聞いて非常に驚いたという。

虎綱16歳のとき、すなわち天文16年(1547)のことといわれる。
なお、この年は信濃経略の真っ只中であり、信玄が諏訪郡・上伊那郡に続いて佐久郡をも制圧した頃である。

差別という苦難の日々

その後、百姓出身の虎綱を待ち受けていたのは、周囲の人々からの厳しい差別であった。

信玄に召し出された16歳のときから24、5歳、すなわち天文19~20年(1550、1551)頃まで続いたという。

虎綱を取り立てたのは信玄の見込み違いだと悪口を言われ、子供らには「保科弾正、鑓弾正、高坂弾正、にげ弾正」と声をそろえて馬鹿にされる始末だったという。
このような差別は信玄に召し出された16歳のときから24~25歳、すなわち天文19~20年(1550~51)頃まで差別は続いたといい、「虎綱を取り立てたのは信玄の見込み違い」だと悪口を言われ、また、子供らには「保科弾正、鑓弾正、高坂弾正、にげ弾正」と声をそろえて馬鹿にされる始末だったらしい。

この受難に対し、虎綱は一切反発せずに黙って耐え忍び、信玄の面子をつぶさないように心がけた。やがて信玄から咎められなかった家臣は、家中において虎綱だけになったという。

異例の大出世

そうした中でも、虎綱は徐々に頭角をあらわし、やがて「御使番12人衆」の1人に抜擢され、天文21年(1552)には150騎の侍大将となって "春日弾正忠" を名乗ったという。
さらに翌天文22年(1553)には信玄による村上義清の攻略時に信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代になったのである。

上杉謙信の抑えに抜擢

やがて上杉謙信との抗争がはじまると、弘治2年(1556)には謙信との争いにおける最前線・海津城の城代に任じられ、異例の大抜擢となったのである。

永禄4年(1561)には謙信と大激闘となった第4次川中島の戦いに参戦し、このとき虎綱は馬場信春とともに別働隊を指揮している。

一説にこのころに信濃の旧族・香坂氏に養子に入り、"香坂"の姓を称したという。

香坂氏は信濃国更級郡牧之島の国衆であり、このときは既に武田氏の傘下となっていた。
なお、高坂昌信の「高坂」の字は香坂氏に由来するが、実は史料による誤記だという。また「昌信」という名も後世の史料にみられるものの、明らかに誤りとの指摘もあるようだ。

虎綱は永禄6年(1563)6月まで"香坂"の姓を称していたことが確認できるが、その後、永禄9年(1566)までには復姓したとみられる。

虎綱は上杉謙信という最大のライバルの抑えという重責からか、実は川中島の戦いを除く軍事にはほとんど従軍していない。 一方で武田家臣団の中で最大規模の軍事力を有していたと伝わっている(『甲陽軍艦』)

ただし、元亀3年(1572)から行なわれた信玄の軍事遠征では、例外として三方ヶ原の戦いに参戦している。これは上杉謙信が降雪の影響で身動きできないと判断しての出陣命令とみられている。

長篠合戦の大敗で、武田の行く末を憂う

信玄死後、武田勝頼の代になっても引き続き海津城代として川中島四郡を支配し、上杉氏に対する抑えを任された。

このため天正3年(1575)の長篠の戦いには参戦しなかったが、敗戦した武田軍を出迎えると、新敷く用意した武具や旗指物に替えさせ、国内に悟られないように体面を保とうと配慮したという。

この戦いで他の武田四天王、すなわち、馬場信春・山県昌景内藤昌豊の3人は全員討ち死にしたが、虎綱は難を逃れる形となっている。

その後、虎綱は北条氏政との同盟強化や上杉謙信との関係改善を訴えている。

天正6年(1578)には謙信が病没したのをきっかけに上杉家のお家騒動・御館の乱が勃発すると、勝頼は同盟関係にあった北条氏政から上杉景虎の支援を要請されて越後へ出陣した。

しかし、上杉景勝から和睦を持ちかけられると、虎綱は勝頼の命を受けて武田信豊とともに同盟交渉にあたったが、その最中に海津城で死去した。


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