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山県昌景

武田氏の家老として重きをなした兄・飯富虎昌の部隊「赤備え」を受け継ぎ、戦場では敵将から恐れられる存在だった山県昌景。

特に徳川家康は昌景と交戦して、その凄さを感じており、武田滅亡後には家臣の井伊直政に昌景の部隊を引き継がせているほどである。
内政や外交にも多く関わるなど、文武両道に優れた重臣であったが、長篠の戦い(1575年)で主君・武田勝頼に撤退を主張するも、これを受け入れられず、最期は織田・徳川の鉄砲隊を前に悲壮な攻撃を何度も繰り返して壮絶な死を遂げた。

明らかでない出自・前半生

昌景の兄が飯富虎昌であることは冒頭で述べたが、このことから昌景は、武田氏の譜代家老衆の家柄・飯富氏の出身であり、はじめは飯富源四郎と称したと伝わっている。

しかし、虎昌・昌景兄弟の出自には異説もある。
『甲陽軍艦』によると2人は元々は美濃国守護・土岐氏に仕えており、のちに浪人して甲斐国へやってきて武田信虎に仕えるようになったというから、飯富氏に養子入りした可能性も考えられるのである。

ちなみに彼の生誕年は兄同様に不明であり、前半生はよくわかっていない。

兄・虎昌が宿老に

昌景が武田信虎に仕えていた記録は残っていないが、一方の兄・虎昌は確実に信虎に仕えていた記録がある。

虎昌は享禄4年(1531)に信虎に反発して背いたが、戦いに敗れて降参し、再び武田氏に仕えている。 さらに天文10年(1541)に主君・信虎が追放されて、嫡男の晴信(=のちの信玄)が家督を継いだときには、両職(=家老の最高職)の板垣信方甘利虎泰とともに、宿老の1人としてこのクーデターに加担している。
その後の虎昌は、信玄の嫡男・武田義信の後見人のような立場となるなど、宿老として重きを成すようになっていったのである。

信玄家臣時代

信玄が当主になってからの武田家は、信濃国の侵略を次々と進めていった。

昌景はこの頃に信玄に近侍し、信濃侵攻のときに初陣を果たしたとみられており、やがて信玄の側近で若い家臣だけで構成された「御使番衆12人」の1人に選任され、天文21年(1552)には騎馬150持の侍大将になったという。
一方で、弘治2年(1556)には水科修理亮に対して与えられた信濃善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めるなど、奉行としての活動もみられるから、文武両道の武将であったことがうかがえる。

永禄4年(1561)の川中島最大の激戦となった第四次川中島合戦では、信玄本隊が窮地になったが、昌景はその本隊の前衛を守備して、上杉勢と激しく戦ったようだ。

義信事件と赤備えの継承

なお、永禄6年(1563)頃には、三郎兵衛尉の官途を使用して名乗っていたのが確認されている。

信玄はかねてより今川・北条の両氏と三国同盟を締結していたが、この頃には今川氏が没落しはじめ、代わりに尾張の織田信長や三河の松平元康(のちの徳川家康)が台頭するなど、対外情勢が変化しはじめていた。
信玄はやがて織田と誼を通じて今川氏を滅ぼそうともくろむが、嫡男・武田義信が今川義元の娘を正室としていたため、信玄・義信父子は次第に不和になっていた。

そして永禄8年(1565)、ついに義信と飯富虎昌らが信玄暗殺(または追放)のクーデターを企てたが、これは結果的に事前に計画が露呈したため、虎昌らは処刑されて義信も幽閉されて後継者としての地位を失うことになった(義信事件)。

クーデターの不穏な動きはすぐに目付役に察知された。
そして用心深い信玄は、躑躅ヶ崎館の御閑所(=トイレのこと)を改造して籠もり、3人の側近に身辺警護を命じたが、その中の1人が昌景だった。
こうした中、義信から虎昌宛ての密書を入手した昌景は、虎昌が兄であるにもかかわらず信玄に報告したといい、クーデターを未然に防いだのであった。

事件後、信玄は ”謀反人が兄・虎昌であるから昌景は肩身が狭いだろう” として、昌景に譜代家老家の山県氏の名跡を継承させた。 また、昌景は兄の部隊のうち50騎を引き継いだといい、ここに昌景の「赤備え」部隊が誕生したのであった。

なお、永禄9年(1566)には、山県の姓となっていることが確認できる。また、同年の西上野侵攻で、昌景の赤備え部隊は箕輪城攻めに参戦している。

やがて、昌景隊は諸大名から畏怖され、「赤備え」が最強部隊の代名詞となって、のちに諸大名に大きな影響を与えることとなる。

内政・外交でも活躍

昌景は戦功だけでなく、内政・外交における文官としても実績を残している。

永禄10年(1567)、甘利信忠の死後は「職」に任命され、裁判・検断権(警察の権利)を管掌したという。諸役免許や参陣命令、寺社支配など多くの活動に関与しており、外交面では会津の蘆名氏や三河の徳川氏との同盟に尽力した。

永禄11年(1568)に信玄が家康と今川領の割譲の密約を結び、駿河今川領への侵攻を計画するが、このときに徳川家康との取次を担当したのが昌景であった。

家康を畏怖させた昌景の赤備え

同年12月に、ついに武田軍が甲府を出陣すると、わずか7日で今川氏の本拠・駿府を占領し、今川氏真を遠江国へ追いやっている。(駿河侵攻)

一方で、家康もほぼ同時に遠江国へ攻め込んでいるが、昌景の行動がきっかけでまもなく、武田と徳川の同盟関係を破綻することになってしまう。
というのも、昌景は信玄から駿河国の西方面の制圧を命じられていたが、大井川を超えて遠江国にまで侵攻してしまい、これを密約違反として激怒した家康が信玄に抗議してきたのである。

しかし、その話し合いがもたれる間もなく、昌景配下の将が苅田を行なっていた所に徳川兵が鉢合わせとなり、戦いに発展させてしまった。このときの徳川兵は少数しかおらず、家康は昌景の隊に追いかけられて命からがら逃げて行ったといい、この結果、武田と徳川の同盟は決裂している。

昌景は同盟破棄の原因を作ったことで処罰を覚悟していたが、他の武田家臣からの赦免嘆願もあり、この一件はやむを得ないということで処罰を免れた。
それどころか徳川軍を敗戦させたことを評価され、永禄12年(1569)対徳川氏の指揮官として駿河支配の拠点・江尻城代に任じられ、昌景配下には精鋭が配属されたという。

なお、家康はこの一件で昌景のことが強烈に脳裏に焼きついたようであり、のちに武田遺臣を積極的に家臣団に組み入れ、井伊の赤備えにつながっていくのであった。

同年に行なわれた戦国最大規模の山岳戦・三増峠の戦いでは、はじめ戦局は武田方が劣勢であったが、昌景が別働隊として奇襲に出たことでその危機を救っている。

西上作戦

元亀3年(1572)、武田軍による徳川領への大規模侵攻となった西上作戦が開始されると、昌景は秋山虎繁らと別働隊を率いて信濃から三河に侵攻し、11月には遠江国の二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流している。

12月の三方ヶ原の戦いでは、昌景の軍勢が崩れかかったところ、武田勝頼に助けられたという。一方で家康に猛攻を仕掛け、浜松城に逃げ帰った徳川軍を追跡したが、家康の空城の計に疑念をもってその場を去ったという。

勝頼家臣時代と長篠合戦での最期

元亀4年(1573)4月、西上作戦の途上で信玄が病死。このとき昌景ら重臣たちは後継者の勝頼の補佐を託された。

勝頼は父・信玄が行なってきたように勢力拡大路線を踏襲し、積極的に織田・徳川連合と交戦していった。
信玄病没の翌天正2年(1574)には、昌景が織田方の東美濃・明智城を攻略している。
このとき、信長の4万もの軍勢が東美濃の山岳地帯まで攻め込んできたが、昌景は軍勢6千で迎撃し、織田の大軍を撃退して岐阜に追いやったと伝わる。

昌景は、信玄の壮年期以降の四宿老、いわゆる武田四天王の一人に名を連ねる重臣となっており、他に馬場信春内藤昌秀高坂昌信がいた。しかし、勝頼はやがて彼らよりも、跡部勝資や長坂光堅らを重用するようになっていったといわれている。

なお、天正3年(1575)に高野山成慶院に信玄の供養を依頼した際には、自ら使者として高野山に参加している。

そして、同年に織田・徳川連合に大敗した長篠の戦いでは、昌景は他の宿老の馬場や内藤らとともに、勝頼に撤退を進言するも受け入れられなかった。
昌景隊は武田軍の左翼を担当し、1500の兵で6000余の徳川軍を相手に奮戦したが、徳川軍の鉄砲隊を前に大敗し、最期は馬上で銃弾を受けて討死にしたという。

『甲陽軍鑑』によると、昌景の首級は、敵に奪われないように家臣の志村某が掻き取り、甲州に持ち帰ったと伝わる。


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