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山県昌景

昌景の隊は "赤備え"と呼ばれ、敵将から恐れられる存在であった。特に徳川家康は昌景と交戦して、その凄さを感じており、武田滅亡後に家臣の井伊直政に正景の部隊を引き継がせているほどである。
内政や外交にも多く関わるなど、文武両道に優れた重臣であったが、長篠の戦い(1575年)で主君・武田勝頼に撤退を主張するも、これを受け入れられず、最期は織田・徳川の鉄砲隊を前に悲壮な攻撃を何度も繰り返して壮絶な死を遂げた。

経歴

昌景は享禄2年(1529年)に誕生し、はじめ飯富源四郎と称したようである。

兄・虎昌の出世とともに・・

兄は武田家の譜代家老・飯富虎昌といわれている。『甲陽軍艦』によると、昌景は兄・虎昌とともに美濃国土岐家を去って浪人した後に甲斐国へきたというが、これは定かではなく、昌景の前半生はよくわかっていない。

兄・虎昌は武田信虎に仕え、享禄4年(1531年)に一旦は信虎に背いものの、戦いに敗れて降参。再び武田に仕えている。
天文10年(1541年)に武田信玄が当主になった後は、武田家臣としての虎昌の信頼は高まり、信玄の嫡男・武田義信の後見人のような立場となるなど、宿老として重きを成すようになる。

昌景もまた、兄・虎昌の出世とともに順調に武田家臣として出世していった。
武田信玄に近侍して信濃侵攻で初陣を果たすと、天文21年(1552年)には信濃攻めの功績で騎馬150持の侍大将となったという。

そして、弘治2年(1556年)には水科修理亮に対して与えられた信濃善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めるなど、奉行としての活動もみられるようになり、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは信玄本隊の前衛を守備し、上杉勢と激しく戦い、永禄6年(1563年)には三郎兵衛尉を名乗っている。

義信事件と赤備えの継承

永禄8年(1565年)、信玄の嫡男・武田義信と飯富虎昌が謀反を起こし、虎昌が処刑されて武田義信も幽閉となる事件が起きた(義信事件)。このとき昌景は信玄への忠義を貫き、虎昌が血族であるにもかかわらず事前に謀反の動きを信玄に報告したという。

この功績によって昌景は兄・虎昌の赤備え部隊を引き継ぐとともに、山県氏の名跡を継承したとされている。 昌景の赤備え部隊は諸大名から畏怖され、「赤備え」は最強部隊の代名詞となってのちに諸大名に大きな影響を与えることとなる。

永禄9年(1566年)には、山県の姓となっていることが確認できる。また、同年の西上野侵攻での箕輪城攻めに参戦している。

内政・外交でも活躍

昌景は戦功だけでなく、内政・外交における文官としても実績を残している。

永禄10年(1567年)、甘利信忠の死後は「職」に任命され、裁判・検断権(警察の権利)を管掌したという。諸役免許や参陣命令、寺社支配など多くの活動に関与しており、外交面では会津の蘆名氏や三河の徳川氏との同盟に尽力した。

永禄11年(1568年)に信玄が家康と今川領の割譲の密約を結んで駿河国へ侵攻を始めたが、このとき徳川家康との取次を担当したのは昌景である(駿河侵攻)。

家康を畏怖させた昌景の赤備え

ただ、この戦いで家康との同盟を手切れにしたのも昌景の行動がきっかけであった。

信玄から駿河国の西方面の制圧を命じられた昌景は、大井川を超えて遠江国にまで侵攻してしまい、 これを密約違反として激怒した家康が信玄に抗議したが、その話し合いがもたれる間もなく、 昌景配下の将が苅田を行なっていた所に徳川兵が鉢合わせとなり、戦いに発展させてしまったのである。

このとき徳川兵は少数しかおらず、昌景の隊に追いかけられ、命からがら逃げて行ったといい、この結果、武田と徳川の同盟は決裂している。

昌景は同盟破棄の原因を作ったことで処罰を覚悟していたが、他の武田家臣からの赦免嘆願もあり、この一件はやむを得ないということで処罰を免れた。それどころか徳川軍を敗戦させたことを評価され、永禄12年(1569年)対徳川氏の指揮官として駿河支配の拠点・江尻城代に任じられ、昌景配下には精鋭が配属されたという。

家康はこの一件で昌景のことが強烈に脳裏に焼きついたようであり、のちに武田遺臣を積極的に家臣団に組み入れ、井伊の赤備えにつながっていくのであった。

同年に行なわれた戦国最大規模の山岳戦・三増峠の戦いでは、はじめ戦局は武田方が劣勢であったが、昌景が別働隊として奇襲に出たことでその危機を救っている。

元亀3年(1572年)、武田軍による徳川領への大規模侵攻となった西上作戦が開始されると、昌景は秋山虎繁らと別働隊を率いて信濃から三河に侵攻し、11月には遠江国の二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流している。
続く12月には三方ヶ原の戦いでは昌景の軍勢が崩れかかったところ、武田勝頼に助けられたという。一方で家康に猛攻を仕掛け、浜松城に逃げ帰った徳川軍を追跡したが、家康の空城の計に疑念をもってその場を去ったという。

勝頼の代になると・・

信玄死去の際には、その死を3年隠蔽することと勝頼の補佐を託されたが、勝頼は跡部勝資や長坂光堅らを重用するようになっていく。

天正2年(1574年)、東美濃の明智城を攻略すると、信長の4万もの軍勢が東美濃の山岳地帯まで攻め込んできた。これに昌景は軍勢6千で迎撃し、織田の大軍を撃退して岐阜に追いやったと伝わる。

天正3年(1575年)、高野山成慶院に信玄の供養を依頼した際には、自ら使者として高野山に参加している。

その後、長篠の戦いでは馬場信春や内藤昌秀らとともに撤退を進言するも受け入れられず、信長軍の鉄砲隊を前に大敗して全軍退去となった際に討ち死にした。

略年表

  • 享禄2年(1529年)、誕生
  • 天文21年(1552年)、信濃攻めの功で騎馬150持の侍大将へ
  • 弘治2年(1556年)、諸役免許の朱印状奏者を務める
  • 永禄4年(1561年)、第四次川中島の戦いに従軍
  • 永禄6年(1563年)、三郎兵衛尉を名乗る
  • 永禄8年(1565年)、義信事件を信玄に報告。この功で虎昌の赤備え部隊と山県氏の名跡を継ぐ
  • 永禄9年(1566年)、西上野侵攻での箕輪城攻めに従軍
  • 永禄10年(1567年)、「職」に任命され、裁判・検断権(警察の権利)を管掌する
  • 永禄11年(1568年)、駿河侵攻に従軍。徳川家康との取次を担う
  • 永禄12年(1569年)、駿河江尻城代となり、対徳川氏の指揮官となる。同年、三増峠の戦いで功をたてる
  • 元亀3年(1572年)、秋山虎繁らと別働隊を率いて信濃から三河に侵攻し、三方ヶ原の戦いに参戦
  • 天正2年(1574年)、東美濃の明智城を攻略。その後、攻め寄せた織田軍を迎撃して撃退する
  • 天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田・徳川連合の鉄砲隊を前に戦死。


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